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東洋哲学的な直観と、オジサンの直感の違い

大乗仏教的な縁起の発想から、直線的な因果関係ではなくさまざまな関係性を含んだ全体の秩序をガバっと掴みにかかる、いわゆるレンマ的な直観が注目されつつある。論理を緻密に組み立てていくロゴス的な発想(≒西洋的な発想)の限界を越えるリーサルウェポンとして。

この発想自体は悪くないと思いつつ、僕はその先に希望的な未来を思い描くことができない。

「いや、なんとなく‥こうなのだよ」というバイアスまみれの直感を肯定するロジックになりかねないからだ。

会社員をやったことがあるなら、誰しも頑固な中間管理職の根拠のない直感に振り回された経験はあると思う。そして、その直感がアテにならないことも理解しているはずだ。

では、東洋的な直観と、中間管理職の直感は、何が違うのか? なぜ前者は褒め称えられ、後者にはうんざりさせられるのか?

両者がイコールであるという可能性もある。当然、東洋的な直観が間違っていることもあるのだから、後者は単にその精度が低く、間違いがちというわけだ。

では、東洋的な直観力を高めるにはどうすべきなのか? 道元なら座禅を組めというだろう。実際、マインドフルネスブームは、そうやって始まったわけだ。

問題があるとすれば、誰が悟りを開いていて、誰が開いていないのかを、証明する方法がないということだ。

東洋哲学を聞き齧ったこのある人なら必ず「俺ってもしかして、悟り開いちゃってるんじゃない?」と浮き足立つ瞬間があると思う。僕もかつてはそんな気がしていた。

しかし、本当のところはわからない。本当に「悟り」なる現象が存在するのかもわからない。論理に拠らない直観なら、言語による説明をすることも、説明に対して反論することも難しい。

そうなると、「言ったもん勝ち」の状況に陥る。誰も悟りを開いていないのに、誰もがあたかも悟りを開いているかのように振る舞う。現代の坊主の大半は、そういうイキリ合戦を繰り広げるイキリ坊主だ。

論理による説明責任を誰しもが逃れた時に起きるのは、権威主義だ。権威のある一部のトップ僧侶なのか、権力者なのか、そういう人が「ふん…私は直観により真理を悟ったのだよ…」という態度を取れば、下下民は「はぁ、そうなのか…言う通りにしておこう…」とならざるを得ない。

逆に、下っ端がそんな態度を取ろうモノなら「何を寝言をいうとんねんw」となる。結果、権威主義だ。

仏教は常に権力と結びついてきた。禅は太平洋戦争を礼賛した。そりゃあ、そうなる。

僕は個人的にレンマ的知性を磨くことには興味がある。だが、それを社会一般に広まることには興味がない。権威主義に陥るのが目に見えているからだ。

語り得ぬことについて語るのは難しい。本当に。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!