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なぜ性悪説は耳に心地がいいのか?【雑記】

たまたま現れてきたYouTubeのオススメ動画を観た。『3人に1人が離婚する理由』という動画である。

26万再生で、チャンネル登録数は52万人。それなりに評価されている動画なので、さぞ面白い考察が聞けるのかと期待した。だが、見終わった感想を遠慮なしに言わせてもらうと、ほぼ収穫のない動画であった。

人間はデフォルトがゴミである。ゴミである人間同士が結婚生活を営むには、お互いに成長することが欠かせない」というだけの内容をそれっぽい譬え話でダラダラと4分半まで引き延ばした動画。その印象を抱かずにいることは難しかった(そのくせ早口で喋っているため、たくさんの有益な情報を摂取しているかのように錯覚させられる。これがタイパ時代のYouTube生存戦略だろう)。

しかし全く得るものがなかったわけではない。僕にとって興味深かったのは、動画自体ではなくコメント欄である。

ご覧のように、絶賛の嵐が吹き荒れている。ざっとみたところ批判の声は皆無であった。

さて、特に注目すべきは最後のコメントである。

耳に心地よい言葉を聞き過ぎると破滅が待っている。
本音をズバッと言ってくれる人を探していた。

おそらくこのコメント主が想定している「耳に心地よく、人間を破滅へ導く言葉」は性善説的な言葉であり、「耳に心地悪いが、現実を知り、合理的に振る舞うために必要な本音」が性悪説的な言葉であり、この動画なのだろう。

そして多くの人がこの感覚を内面化しているように見える。だが、少しおかしな事態が起きているような気がしてならない。

もし本当に性悪説が耳に心地悪い言葉なのであれば、もっとコメント欄に批判や反論、感情的な反発があって然るべきではないだろうか?

むしろ、多くの人が絶賛する状況をみれば、性悪説の方が耳に心地よい言葉と化しているのではないだろうか?

そもそもこの動画における性悪説の根拠は「子どもはいじめをするから、人間はデフォルトでゴミ」というものであり、率直に言って薄弱である。それだけで「そうだ!そうだ!人間はゴミだ!」と絶賛の嵐が吹き荒れるのは、チェリーピッキングしたいと渇望する人間が、甘い甘いさくらんぼを貪り食っている状況に他ならないのではないか?

こんな甘いさくらんぼを、耳に心地の悪い言葉とみなすのは、さすがに無理があるのではないだろうか?

別に逆のことを言うことだって簡単である。「子どもはお菓子を分け与えたり、手紙を交換したりするからは人間はデフォルトで天使」と。そして人間が誰かに親切に振る舞えば脳内に快楽物質が分泌される以上、それも本能的な行動の1つなのだ。

しかし、こんな議論に意味はない。当たり前だが人間は善でも悪でもない。「人間のデフォルト&本能=悪」「無理して手にした理性=善」みたいな単純なアプローチは信仰告白でしかないのである。

アンチワーク哲学は性善説的なアプローチであると捉えられるのだけれど、僕自身は性善説を取っているつもりはない。人間は善でも悪でもない状態で生まれて、善でも悪でもない状態で死ぬと思っている。ただし、一般的に善とされる行動をとる方が合理的であると判断して、善行を取るように人間は動機づけられていると僕は考えている。

クロポトキンが『相互扶助論』に書いたように、自然界で生き残るのは競争的な種ではなく、協力的な種である。みんな大好き進化論的にみても、日常的な感覚からみても、この結論は妥当だろう(ゾンビが跋扈したり、デスゲームが始まったりして、見ず知らずの他人と行動する場面で、真っ先に崩壊するのは利己的な人間が集まったコミュニティである。このお決まりのパターンを、僕たちは特に違和感なく受け入れている)。生存という意味では、利己心を抑えて協力し合う方が明らかに効率がいいのである。

おそらく人間は他者と協力するように(つまり善行とみなされる行動をとるように)本能によっても動機づけられていると言っていい。本能のままに行動すれば秩序が崩壊するという考え方は、おそらく間違っている(そもそも僕はどこまでが本能的な行動で、どこまでがそうでないのかを分けることは不可能だし、そうする必要もないと考えている。人間の欲望は本能と社会的な要請が常にまじりあっているはずだからだ)。

では、なぜこの社会では性悪説の方が耳に心地がいいのか? なぜ性善説(的な、善とみなされる性格が強化されるように人間は動機づけられているという考え)を受け入れる人が少ないのか?

色んな要因があると思う。しかし、ここでは「性悪説を必要とするのが誰か?」を考えてみたい。

性悪説を必要とするのは基本的に支配層である。性善説に則れば、人々は自治が可能ということになり、支配者は必要なくなる。「お前たちは悪なのだから飴と鞭でコントロールして、法律でガチガチに固めますよー」と岸田文雄が口にすることはないとはいえ、基本的に国家や法律、監獄、あるいはお金や企業の理論的バックボーンには性悪説が存在する。

マキャベリは『君主論』の中で、君主が自治的なコミュニティを即座に破壊しないのなら、自らが破壊されるのを待っているようなものだと書いた。つまり君主にとって自治は邪魔であり、自治を成り立たせる性善説は目の上のたんこぶなのだ。

これは政治の話だけではない。高圧的なマネージャーや社長は、部下が善性に基づいて自治できるなら立つ瀬を失う。しかし、彼らは自らの必要性を示して大金を巻き上げ続けることを望んでいる。なら、人々が悪である必要があるのだ。

では、本質的に悪ではない人間を、本質的に悪だと見なすためにはどうすればいいのか?

簡単である。支配し、命令し、評価するのである。

人は支配者の評価を気にしながら、支配し命令されるとき、基本的にぎこちなく振る舞う傾向にある。自発的に行為し誰かの評価を気にする必要がない場合は彼は問題解決に全力で集中し、問題解決に成功する可能性が高い。だが、支配者の評価を気にしながら問題を解決する場合は、支配者が気にいる方法を探り当てながら問題に取り組む必要があり、問題解決に全力で取り組むことができない。そうして失敗すれば支配者は「全くお前はなぜそんなことができないのだ?」とより支配を強める。そして、人は支配者の頭の中を当てずっぽうで探り当てる神経衰弱を諦めて、指示待ちに徹するようになる。するとますます、人間は怠惰で利己的であるという支配者に都合のいい事実が生産されていく。

あるいは、支配者の命令に不服を感じる場合、大小さまざまな反抗行動により、自発性を保とうとする。この姿を見れば「ほら、人間は悪なのだ! だからより強固な支配が必要である」という大義名分を支配者は手に入れる。

さて、ここで注意すべきなのは、支配を欲望する支配者がどこにも存在しないように見える点である。「クハハハハ、愚民どもを性悪説のプロパガンダでだまして、支配してやるぞ・・・」とほくそ笑む黒幕はどこにも存在しない。実際、人々に口を出し、ルールを徹底させようと苦心し、「あいつら俺がおらななんもできへんからなぁ」と愚痴をこぼすおっさんたちは、内心では「自分は部下の自立を促そうとしている」と感じているのである。

ここでは、支配者の絶対的な善性が前提されている。「俺は奇跡的に優秀であり、自発的に善行を行うことができるが、部下たちはそうではない。だから俺が指導し、導かなければならない」というわけだ。そのような前提の下で部下に接しているなら、実際に部下は委縮し、無能なふるまいを繰り返し、自発性を失っていく。「こんなに丁寧に教えてるのに、なんでなんもできへんのかなぁ」となり「こんな奴になにも任せられへん・・・」となる。

つまり奇跡的に善であり優秀なエリートと、そうではない大半の悪であり無能である大衆という構図が支配者の中で刷り込まれていく(もちろんこれは政治家の頭の中にも存在している構図だと思われる)。

※この前の記事でとりあげたビジネスエリートたちも、まさしくこの発想に憑りつかれているわけだ。

そして、この発想は支配者だけではなく、支配される側の人々の中にも刷り込まれていく。

最初の動画に話を戻そう。ここでは、夫婦が離婚する根拠として「赤点の人間と赤点の人間が結婚してうまくいくはずがない」という主張がなされていた。

赤点とは基本的に相対的な評価だ。平均値を出して、その何パーセント以下の点数だったら赤点という構造である。つまり、人間の大半が赤点(落第点)で、黒点(合格点)の人間が少ないと主張するなら、「1人だけ1兆点を叩き出して、他が1点」みたいな状況が想定されていることになる。これに批判がないということは、無意識のうちに少数の黒点のエリートが想定されているわけだ。

人が性悪説を耳に心地のいい言葉として受け入れる理由の1つは、性悪説がこの発想にジャストフィットするからだろう。そして、先述の通り性悪説は性悪説を強化していく。性悪説はぎこちない無能な人間や、指示待ち人間、反抗的な人間を生産する。その結果を見て性悪説を信じる人は性悪説をより固く信じていく。

挙句の果てがこのギスギスした現代社会である。信頼の欠如は官僚制(もちろん官民両方を指す)と市場原理を無意味に拡大していく。そして、銃口を突きつけ合うような非効率な社会が完成していく。

人間の善性を訴えていこうと思う。別に人間が本質的に善であるというつもりはないが、明らかに現実と乖離した極端な性悪説が跋扈している状況はイカれている。きっと僕が言うことは多くの人にとって耳障りだろう。だが耳障りなことを言わなければ、社会は変えられないのである。

人間は、少なくとも一般的に考えられているよりは善である。


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