名詞ではなく、動詞で自己紹介をしよう

名詞はステレオタイプ化を避けられない。なぜなら、名詞とは対象をステレオタイプ化したものだからだ(カント構文)。

ステレオタイプ化されることを望む人は、あんまりいないんじゃないだろうか。実態以上に評価されると気持ち悪いし、実態以下に評価されると気分が悪い。

名詞(例えばプロゴルファーとか、専業主婦とか、デスメタルオタクとか)をその人に張り付けて、その人を評価するということは、その人の自由を奪うということだ。なぜなら、評価されるということは自由を奪われるということだからだ(カント構文)。

つまり、名詞で自己紹介をするということは、自ら好んで自由を差し出すことに他ならない。要するに、プロゴルファーにはプロゴルファーなりの振る舞いが求められているため、プロゴルファーを名乗った時点で、それに沿った行動をしているかどうかをいちいち周囲に審査される運命を受け入れなければならない。本来なら自由だった自分の言動も、審査をクリアする言動に絞り込まれていき、結果的に自由が失われるのだ。評価を無視することも可能だが、評価は少なからず経済的、物質的な影響を及ぼすので、考慮せざるを得ないことが多い。

だから、僕は名詞で自己紹介をすることをやめるべきだと思った。だからといって完全に自分について語るのを辞めることは難しい。社会生活に参加できなくなるからだ。ならばどうすべきか? 動詞で自己紹介をするのだ。

ワンピースを好んでいるけれど「ワンピース好き」ではない。子どもと暮らしているけれどイクメンではない。文章を書いているけれどライターではない。会社に通っているけれど会社員ではない。ラップを作っているけれどラッパーではない。ベースを弾くけれどベーシストではない。本を読むけれど読書家ではない。大学を卒業しているけれどあなたが考えている意味の大卒ではない。日本に住んでいるけれどあなたが考えている意味での日本人ではない。

僕はホモ・サピエンスではなく、ホモ・ネーモ(何者とも意味しない存在を呼ぶ便宜的な呼称)だ。ホモ・ネーモはステレオタイプ化から免れる唯一の呼び名だ。なぜなら、僕がそのように定義したからだ(これが名詞なのかどうかは、学者によって評価が分かれるだろう)。

ホモ・ネーモを名乗ることは「他者のまなざしによって、簡単にコントロールされない」と周囲に知らしめることだ。つまり支配の拒否でありアナーキズムのように見える(当然のことながら、これはホモ・ネーモがアナーキストであることを意味しない)。

ならば僕は好きなことを書ける。ウンコについて語った後に、岸田内閣の未来予測をしても良い。韻文でアメリカを攻撃した後に、散文でアメリカの開拓者精神を褒め称えても良い。資本主義を批判した後に、月見バーガーの魅力を語っても良い。

これはなんら責任を負わないということになるのだろうか? 恐らく、なる。そもそも責任なんてものは人間に必要ない。では僕は万人にとって信頼できない人物か? そうかもしれない。だが恐らく違う。

このnoteに結論を下す必要があるだろうか? ない。

以上だ。さて、僕を評価できるものなら、してみると良い。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!