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ONE PIECE信者による、1044話の肯定の仕方

1044話は、ONE PIECEの歴史上、最も物議を醸した回だった。ゴムゴムの実が、ゴムゴムの実ではなく、ヒトヒトの実 幻獣種 モデルニカだったという新事実が明らかになると同時に、ルフィの中に秘めたニカが覚醒した。

これを受けて「ルフィらしさが損なわれた」と落胆の色を見せる読者も少なからずいるようだ。しかし、僕のようなONE PIECE信者からすれば、このような読者は二流の読者だと言わざるを得ない。ルフィはなんら変わっていないからだ。

まず、ルフィとはどのような人物なのか? そこから考えよう。

僕から言わせれば、ルフィを定義するならば「自由」という言葉以外、考えられない。

ルフィによる海賊王の定義。この定義がまず自由すぎる。

僕はずっとルフィが「海賊王になる!」と言っていたことに、若干の違和感を覚えていた。海賊王とは「誰かが用意した称号」だからだ。愚直に甲子園での優勝を目指す高校球児のように、社会に認められた権威的な称号を手にするために盲目的な努力を重ねていく…このような姿はルフィの「自由さ」とはギャップがあると思っていた。

しかし、この画像のセリフを見た時に合点がいった。ルフィは、用意された称号に対してオリジナルの意味を付与していたのだ。あくまで自分の理想を、たまたまそこに存在した「海賊王の称号」という器に投影したに過ぎず、誰かに用意された椅子にすっぽり収まろうとしているわけではない。

「それは自由ではない!」と糾弾することは簡単だ。しかし、自由とはあくまで程度の問題でしかない。例えば、僕たちは重力の影響を逃れることはできないし、1000年生きることはできない。思考内容も、母語である日本語や育ってきた環境に制限されている。ならば完全な自由であるとは言い難い。

このことはルフィも同じだ。ルフィも完全な自由ではあり得ない。不自由な部分も少なからず持っている。だが、自由な人物は、不自由さを利用する。「海賊王」という言葉の存在は、誰かに決められた称号であるという不自由さを孕んでいるが、ルフィはその言葉を利用して、自分がやりたいことを表現してしまったのだ。

他にも、兎丼で囚人となって不自由になった場面でも、ルフィはその境遇を修行に利用した。

人は強制収容所に人間をぶちこんで全てを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない

V・フランクル『夜と霧』

これは、ルフィの戦い方にも表現されている。レヴィ=ストロースなら、ブリコラージュと呼ぶようなルフィの戦闘法は、いまそこにある能力やチャンス、制限を自由な発想で最大限に活かす。

クロコダイルの弱点を見抜き、対抗策を編み出すルフィ。
エネルのマントラを回避するために、跳弾を意図的に生み出したシーン。

作中ではバカ扱いされがちなルフィだが、その戦闘は創意工夫に満ちている。ギア2、3、4なんかは、間違いなくルフィの創意工夫の偉大な達成だ。ルフィはゴムゴムの実と自分の武術という制限(≒不自由)の中で、自由に戦う方法を常に模索している。

さて、このことを踏まえて1044話を見てみよう。まず注目してほしいのが、このセリフ。

「おれのやりたかった事全部できる」

これはつまり、ルフィにはこれまで構想してはいたものの実現不可能だった戦闘のアイデアがいくつもストックされているということだ。たまたま、アイデアを実現する能力を持っておらず、それを実現する目処がなかったから、ルフィは諦めていたのだろう。

しかし今回思いもよらないチャンスが訪れた。ルフィの中のニカが目覚めて、できることの範囲がグッと広がったのだ。そして満を待して、ルフィが温めてきたアイデアは実現されていくのだ(それが来週以降の展開ということになるのだと思う)。

このように見れば、ルフィは運命によって与えられたニカという能力を行使するだけの操り人形ではないことがわかる。確かに、ニカの能力を手にしたことは偶然だった(おそらく)。しかしルフィはそのチャンスを自分のものとして利用したのだ。

その証拠に、ルフィはニカの姿を「ギア5」と名付けた。自分のアイデアと創意工夫によって積み上げてきた「ギア」という系譜に、ニカの能力を位置付けたのだ。

つまり今回の展開は、枠にとらわれずに自由に戦うというルフィのスタイルが、これまで以上に強化されたというだけであり、むしろギア5は、ルフィらしさの最高到達点と言ってもいい。ONE PIECEはずっと面白いし、ルフィはずっとカッコいいままだ。

この展開を批判する人は、ONE PIECE信者としての信仰力が足りない。別に僕と同じ論法でなくても構わないが、ONE PIECEを愛しているなら、この展開を正当化できるロジックを用意すべきだ。もちろん、僕はわざわざ擁護しなければつまらない漫画だと言っているのではない。擁護と、解釈と、理解と、愛と、そのあたりは紙一重だ。擁護はするけれども、それはもっと漫画を楽しむするためにやっていることであり、それは盲目的な信仰なのかと言えば事実そうなのだけれど、そもそも漫画を愛するなんて盲目的な信仰でしかあり得ない。

万国のONE PIECE信者たちよ。団結せよ。批判してくる生半可なファンをねじ伏せて、全員を信者に変えてしまおう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!