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なんで自由と平等って対義語みたいになってんの?

「自由と平等は両立しない」みたいな言説がずっと僕は不思議だった。

まるで人は自由になった途端にカースト制度を作り出すことが自然法則で定まっているかのような言い草だからだ。

友達とダラダラ過ごしているとき、僕は友達と平等だ。だからと言って内心で「クソッ、平等でなければコイツらを支配して搾取してやるのに‥」と不満を煮えたぎらせているわけではない。僕たちは自由で平等なのだ。

自由と平等を対立させて考える人は、「能力を自由に発揮すれば、格差が生まれてしまう」といった文脈でこの理論を登場させるわけだが、僕はそこにも疑問がある。

例えばやたらと日曜大工が得意な友達がいたとして、彼はみんなの棚を作って回ることに生き甲斐を感じているとしよう。その結果、みんなからたくさんお菓子もらえて、彼にばかりお菓子が集まる、一見不平等な状況になるとしよう。

自由に日曜大工をした結果、不平等が訪れたように見えるが、別にこの筋書き通りに進むとは限らない。

そもそもお菓子を貰えないかもしれないし、そんなことは彼は気にしないかもしれない。あるいは、彼は「いや、お菓子いらないから日曜大工やらせてや」と言うかもしれないし、お菓子を友達に配るかもしれない。そうなれば平等のままだ。

要するに、「自由と平等は両立しない論」は「能力を発揮して貢献した度合いを正確に評価して、報酬を得られること(かつ、それが再分配されないこと)」を前提にしなければ成り立たない。

当たり前だが、実際に僕たちが生きている社会は「能力を発揮して貢献した度合いを正確に評価して、報酬を得られる社会」ではない。報酬は概ね美味しいポジションに陣取っているかどうかで決まる。

にもかかわらず、あくまでそれも実力主義であると言い張りたい人がいる。その論法をよくよく聞いてみれば、「実力によって収入が決まる」「実力とは収入を得る能力のことである」という完全な循環論法を言っているだけのように見えるのだが、それでも貫き通したい人はいる。

実力主義こそが自然法則(なぜなら、実力を正当に評価しなければ、ソ連のような怠け者だらけの社会になるから、実力主義を採用せざるを得ない)ということにしておけば、自分の美味しいポジションを正当化できる。「いや、美味しいポジションに座ってるだけですよね?」と言ったところで「ふん、俺にうまく立ち回るだけの実力があったからさ」と主張するだろう。

要するに「自由と平等は両立しない」というのは、支配階級のプロパガンダなのだ。

支配階級の太鼓持ちのような人たちは、わざわざコンピューターでシュミレートしたり、エントロピーがどうのこうのといった説明をしたりすることで、美味しいポジションが自然法則によって成り立っていることを証明しようとする。王権神授説の現代バージョンだ。

僕はどこまで行っても左翼だ。「能力に応じて貢献し、必要に応じて受け取る」ならば、自由で平等たり得る。じゃあそうしようよ、と思ってしまう。

イヌイットなんかは、狩に成功した奴がたくさん食べて良いことにもならないらしい。そいつが調子に乗って権力を掌握しないようにとのことだ。それでも狩の文化が無くなってみんなが飢え死にするようなことにはならない。自由で、平等じゃん。

僕は人類学者じゃないけど、自由で平等な社会は探せばいくらでもあると思う。たしかにロールスロイスを乗り回す自由はないかもしれないが、そんな欲望はすぐに忘れられる。

つまり、こういうこと。

格差も、支配も、不自由も、なにもない世界で暮らしたい。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!