能力主義の何が間違っているのか?

「誰でも、努力次第で上に行ける」「貧乏人は努力しなかっただけ」

これらが間違っていることは、ほぼ明らかになっているのだが(貧乏人の子は貧乏になりやすく、金持ちの子は金持ちになりやすい)、まぁそれは置いておこう。

僕は、100パーセント努力だけで評価される平等社会が仮に実現したとしても(そんな世界が実現するとは思えないが)、僕はそれを受け入れたいとは思わない。

その社会では、トイレ掃除をする人の給料が安く、周りから見下されることを容認することになるからだ。

どういうことか? 順を追って説明しよう。


格差の問題を語る人が、前提としている考え方

大雑把に分類すれば、社会は3層に分類できる。

(1)めっちゃ賢くて、めっちゃ金持ちのエグゼクティブ。経営者、学者、ベンチャー起業家や政治家など。
(2)そこそこ賢くて、そこそこの金持ちのホワイトカラー。中間管理職に落ち着く。
(3)バカで、貧乏なブルーカラー。工場で働いたり、トラックを運転したり、トイレを掃除したりする現場仕事に落ち着く。

若干の例外はあるものの、今の社会では(1)の子供は一流大学を卒業して(1)になり、(2)の子供は中堅大学を出て(2)になり、(3)の子供は中卒・高卒で(3)になる可能性が高い。

「平等にすべき!!」という主張は言い換えれば、「(3)に生まれても頑張れば(1)や(2)になれる社会にすべき」で、逆に「(1)に生まれても、サボれば(2)や(3)に落ちる可能性がある社会にすべき」ということになる。

この考え方に、潜んでいる重大な問題にお気づきだろうか?


「ブルーカラーは貧乏で当然」という暗黙の前提

言い換えれば「ブルーカラーはバカでもできる仕事だから、給料が安くても、バカにされても当然だから、一刻も早く抜け出すべき恥ずべき階級だ」という暗黙の前提だ。

これは明らかに、職業格差を容認していることになる。

ブルーカラーの人たちは、エッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちである傾向にある。つまり社会に必要な人たちだ。ホワイトカラーやエグゼクティブは非エッセンシャルワーカーである確率が高い。言い換えれば「大して重要ではない仕事」だ(デヴィッド・グレーバーが言うブルシット・ジョブだ)。

平等な社会に近づくほど、重要な仕事をしている彼らの給料が安くなっていき、バカにされる。一方、「なんとかコンサルタント」とか「なんとかプレジデント」みたいなクソどうでもいい仕事の給料が上がっていき、「あの人は努力をした人だ…」と崇められる。

嫌じゃないか? そんな社会。

まぁ、ブルーカラーの人たちが努力しなかったというのは、事実かもしれない。だからといって、その人たちが貧乏に苦しんだり、バカにされるべきなのだろうか? 僕は間違っていると思う。

機会の平等なんて糞食らえ。僕の意見は真逆だ。


貧困さえ解消されれば、機会の平等なんてどうでもいい

トイレ掃除の給料は安い。トイレ掃除している人が一家の大黒柱になるなんて言えばお笑い種だ。明らかに問題はここにある。

トイレ掃除する人の生活が保障され、家族が路頭に迷う心配がなければ、彼はトイレ掃除の仕事に満足できる。

彼の家には恐らく学術書は置いていないし、子どもにモンテッソーリ教育を受けさせるようなこともないだろうから、学歴も階級も再生産される。でも、だからなんだというのだ。彼の子どもがトイレ掃除をしようが、別に構わないだろう。

子どもが、わざわざハーバードに入学して、バイオベンチャーを起業したいと考えるとは思えないし、別にそんなことをする必要はない(やりたければ、やればいいが)。

そもそも機会の平等を実現するなら、全員生まれた瞬間に同じ施設にブチ込むくらいの暴挙をしなければならないのだ。そんなことは不可能だし、そんなことに労力を作必要はない。労力を避くべきなのは、「全員の生活を保障すること」これだけだ。つまり…


ベーシックインカムの実現

これ以外にありえない。大学を無償化する必要なんてない。大学なんて9割くらい潰してしまえばいい。まともに勉強するやつなんてごく一部なのだから、勉強したい奴だけ行けばいい。就職するために大学に行くなら、ニートするか、トイレ掃除するか、野菜でも育てておけばいい。競争社会とか学歴社会が、膨大な無駄を生み出しているのだから。そんなものは全てベーシック・インカムでぶっ潰せばいいのだ。

あー、クソ社会、クソ社会。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!