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文章が書けない【雑記】

noteの更新が減ってきている。出版業で忙しいから仕方がないのだけれど、あまりにも書かなさすぎると文章筋が弛んでしまう。なんといっても僕は出版業で飯を食うのと同時に、作家業で飯を食おうとしているわけだ。多少、無理してでも文章は書いていたいのである。

とはいえ『14歳からのアンチワーク哲学』という本が完成したばかりの現在地は、僕にとって実家のように居心地のいいセーブポイントなのである。この本は良くも悪くも僕の思考の集大成であった。ここを踏み出れば、まだマップ未開放の思考のフロンティアである。どんな敵が待っているかもわからない。だから僕はここ数か月、一歩踏み出してはセーブポイントに戻るようなチキンっぷりをnoteに晒した挙句、とうとう一歩踏み出すことすらしなくなったわけだ。

そろそろ次の場所へ向かいたい。僕は曲がりなりにも本を3冊出して、次に出すのは4冊目ということになる。1冊出すたびに毎回同じ思いをしているが、時間がたてばなんやかんやと次の執筆のモチベーションは湧いてくる。きっと、もうそろそろなのだ。もうそろそろ、踏み出せるはずだ。

そのためにまずはとっかかりをつくらねばならない。大きな思想は、思考のプロセスを排泄物のように積み上げて、発酵させなければ生まれないのだが、排泄しなければ始まらない。そのためのnoteである。

さて、「書けない」というテーマで一本書こうと思い立って書き始めたわけだが、すでに限界が見え始めてきた。読者諸氏も薄々僕が引き延ばしている雰囲気を感じ取っている頃合いだろうが、お察しのとおり僕の手札はもう尽きかけているのだ。

そういえば、先日、はじめてのデートといった装いのカップルの隣の席に座っていたら、男の方が沈黙を恐れるあまり「筋トレはやりだしたらスイッチが入って止まらない」という明らかに彼自身にとってもどうでもいい話で沈黙を埋めようとしている場面に遭遇した(当然、相手の女性は「ふーん、そうなんやぁ・・・」といった様子であった)。察したくもないのだけれど、僕は彼の心中を察してしまった。

自分でもクソどうでもいい話だと気づきながらも、その話を開始してしまった以上、ある程度継続させなければ、「なぜそんな話を始めたのだ?」という疑問を抱かせてしまうし、すぐに別の話題に移るのも不自然だから続けている。だが、これをどう着地させるかもわからないし、その次にどう続けていいかもわからない。彼が抱いていたのはそんな恐怖感であろう。僕にとっても馴染みのある場面であり、まるで自分のことのようだった。

そしていま、僕は彼と同じような状況にある。紙幅を埋めることだけを目的に、着地点の見当たらない文章を、ダラダラと続けているのである。だが、彼と僕が決定的に違う点がある。彼の目の前にいる彼女は、その場から離れることができず、退屈な話に付き合い続ける必要があるのだが、僕の文章を読んでいる人はつまらないと思ったら即ブラウザバックできるのである。だから「つまらない」という批判を恐れずに、僕はダラダラと文章を書き続けることができる。

ときには設計図なしに文章を書くのがいい。完成された文章もいいけれど、行き当たりばったりの文章で脳みそをほぐすのもいい。文章が会話よりも優れている点の一つだろう。相手の気持ちをおもんばかることなく、脳内をぶちまけることができる。

とはいえ、あまりやりすぎるのもよくない。なんといってもこれは久しぶりの更新なのである。あまりにも張り切り過ぎたら、筋肉痛を起こしてしまう。これくらいにしておこう。明日もまた書くよ。たぶんね。

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