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孤独感から逃げて、孤独になる

孤独は好きだ。だが、孤独感は嫌いだ。

相手の話に調子に合わせて思ってもない相槌を打っているとき、ふと僕は孤独感を味わう。

僕はきっとこの人を理解しないし、この人は僕を理解しない。ゆえに分かりあうこともない。

大人になると、透明なガラスケースに閉じ込められた展示物のように、自分を誰かに見せるようになる。「私はこんな歴史があって、こんな仕事をしていて、こんな趣味を持っている人間です」と。

透明だから、よく見える。でも、触れられない。

きっと触れたいとすら思っていないのだろう。碌なことにはならないのではないか? 傷つけてしまうのではないか? お互いに失望をして関係性が破綻するだけではないか?

そんなリスクを犯すくらいなら、ガラスケース越しにお互いを鑑賞し続けている方がマシ。大人たちの間には無言の協定が取り交わされ、いつしか社会はピカピカのガラスケースで囲われた展示物だらけの、無機質な博物館になる。

友達や家族のうち何人かは、ガラスケースを取っ払って分かり合える瞬間を味わえる人がいる。だが、いつも触れ合っているわけではない。話題やシチュエーションによっては、ガラスケースに閉じこもって、もしくは閉じ込められて、僕は無理やり理解可能な展示物に変換される。

孤独感は、誰と一緒にいるときはいつも影のように付きまとう。「誰か」とは、明るい気持ちを生み出す代わりに影を生む、光のようなものなのかもしれない。

だから僕はときどき孤独になりたい。光がなければ影もない。孤独になれば、孤独感を味わうことはない。重苦しいガラスケースを脱ぎ去って、展示物としての自分をやめ、好きなことに没頭すれば、ありのままでいられる。

では、ありのままの自分とはなんなのか? もちろんそんなものは存在しない。もし存在するのだとすれば、きっと自分が消え去る経験なのだと思う。つまり、自分という確固たる実体に依存することなく、単に行為だけが存在する感覚である。

この感覚を味わえるから、孤独は楽しいのだろう。もちろん、没頭する何かを持っていなければ、孤独は退屈に変わる。洗濯物を干すことでも、コーヒー豆を挽くことでも、ジョギングすることでも、モンスターハンター2ndGで延々とティガレックスを狩り続けることでも、noteを書くことでもなんでもいいのだけれど、自分なりの没頭を持っていない人は、孤独を嫌うのだろう。

それで人との繋がりを満喫できたならいいけれど、人といるときも孤独感を味わっていたなら不幸だ。彼には孤独という逃げ場がないのだから。

本当は、誰かと一緒にいながら自己が消え去るような瞬間が一番気持ちいい。それは最高に盛り上がったセックスであり、カッチリハマったジャムセッションであり、茶道で言う一座建立だ。

となると孤独に没頭するのはオナニーみたいなものになる。が、まぁいいか。いい人生にはセックスもオナニーも必要だろう。

そういえばバルザックが良いことを言っていた。

「孤独は良いものだ」ということを我々は認めざるを得ない。
しかし、「孤独は良いものだ」と話し合うことのできる相手を持つこともまた、一つの喜びである。

バルザック

ありがとうバルザック。ほんの少し、君のガラスケースの向こうに触れた気がするよ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!