個人のデータを抜き取られることに対する危機感というのが、ピンとこない

『監視資本主義』という本を読んでいる。GoogleやFacebookなどのテクノロジー企業が、個人の行動を監視してコントロールしようとしていることについて、「監視資本主義」という名前をつけて分析する本だ。

この不穏なタイトルからは、危機感が溢れ出ているように感じられる。読んでいると、とんでもなく危機感が煽られる。しかし、一部を読み終えても、いまだにピンとこない。

巨大テクノロジー企業によって行動履歴を収集されて、データを収集されて、気づけば広告をクリックさせられているらしいが、「だからなんなのだ?」と感じずにはいられない。

僕は、広告から物を買うことなんてほとんどないし、収集されて困るような情報なんてない。僕の個人情報をパッケージ化して企業に売りつけようが、好きにすればいい。鼻息荒く広告を打ったところで、僕は見向きもしないからだ。

もちろん、知らず知らずのうちに僕のDNAがハッキングされているかもしれない。この本を買うという購買行動も自由意志のつもりだったが、実はGoogleのアルゴリズムに誘導された結果だという可能性もありうるだろう。

だが、それがなんだというのだ? 僕が白米を食べるのは狩猟採集民族時代の本能をくすぐられた結果だが、それを知ったからといって白米を食べるのをやめはしない。自由意志は存在するが、多かれ少なかれそれは周囲から影響を受けている。それをハッキングだと言うなら、全ての社会的な営みはハッキングだ。

購買行動における脳のハッキングは今に始まった話ではない。これまでマスメディアとテレビCMにコントロールされていたのが、舞台がサイバースペースに変わり、多少洗練されただけだ。ならば、全く新しい脅威だとは、どうしても思えない。

僕が問題だと感じるのは、需要を供給が大幅に上回っているにも関わらず、相変わらず物を売りつけなければならない病的な経済システムの方だ。監視資本主義は、その経済システムの必然的な帰結だろう。物を効率的に売りつけるには、監視資本主義が最適な方法だからだ。

GoogleやFacebookにNOを突きつけるのは構わないが、もっと根本的な問題に取り組むべきではないかと感じる。すなわち、「要らない物を売りつけなくてもいい社会を作ること」だ。その社会では、広告産業も監視資本主義も死ぬしかない。

そうすれば天才的なデータサイエンティストやエンジニアたちは、クソくだらない広告のことなんて考えずに、飢餓を解決したり、海を綺麗にしたりするような、価値のある仕事に取り組み始めることができる。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!