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『テイルズオブアライズ』から、社会批判という遊びを考える

最近は洋ゲーばっかりやっていたので、久しぶりに和ゲーがやりたくなって、購入した。僕はFF派でもドラクエ派でもなくテイルズ派だ。陰キャはテイルズ。常識だろう。

このゲームのシナリオは「支配」に対する考察によって構築されていると見せかけて、最終的には支配の根源である資本主義への批判があった。もちろんメタファーを通じての批判だ。

こういう批判は、「俺はいま深い意味のこもったストーリーのゲームをプレイしているのだ」という満足感を与える以上の意味があるのだろうか? そのことを考えながら、テイルズオブアライズをネタバレ全開で振り返っていこうと思う。

まずこのゲームは、5つの国で構成されるダナと呼ばれる世界を、レナと呼ばれる人々による奴隷支配から解放するところからスタートする。5つの支配はそれぞれ、さながらマックス・ウェーバーのようにさまざまな支配の形を見せつけてくれた。

暴力による強制労働という教科書通りの支配スタイルを採用するカラグリアと、秘密警察と住民の相互監視というナチス風支配スタイルだったシスロディア。この2つを解放したプレイヤーは、「このままの流れで悪い支配者を倒していくゲームなのだろう」という予定調和を思い浮かべたものの、次のケインズ的妥協体制に似たメナンシアで予定調和を破壊される(まぁ、それも予定調和的な破壊ではあったが)。続くミハグザールでロシア革命後のプロレタリア独裁に似た矛盾を見せつけられることでダナとレナという善悪の二項対立が崩壊し、ガナスハロスでは「自由からの逃走」的なテーマが語られる。

様々な支配の実態を前に価値観を揺さぶられながらも、主人公アルフェンは支配者であるレナを突き動かす原動力を破壊すべくその正体を突き止めようとしていく。

そして結局、支配者側も操り人形に過ぎなかったことが明らかになる。黒幕は自己増殖する星霊力の意志という、なんとも抽象的なものだった。

それはただひたすら自己増殖のために、周囲の星霊力を奪い肥大していく。結果、レナは星霊力を吸い尽くすための人工物で溢れかえった結果、死の大地となった。しかし、レナの意志はそれに飽き足らず、ダナと呼ばれる別世界の星霊力をも取り込もうと策を巡らせる。

グレタ・トゥーンベリにシナリオを書かせたのではないかと疑ってしまうほどに寓話めいている。明らかに星霊力は資本のメタファーであり、人工物で埋め尽くされたレナは人新世が突き進んだ未来のメタファーとして描かれている。

星霊力に操られるヘルガイムキルはさながら資本家であり、レナ人はマネジメント階級で、ダナ人は労働者階級といったところか。そしてすべては星霊力‥すなわち資本の自己増殖運動の歯車に過ぎないというわけだ。

さまざまな支配に対する抵抗という装いではじまったこのゲームは、支配の根源にある自己増殖運動を破壊して終わる。つまり資本そのものを破壊する革命的な未来を見せつけてくれるわけだ。このゲームを終えたプレイヤーは早速、環境保護活動に勤しみ、ウォール・ストリートを占拠し始め、パイプラインを爆破しようとする…なんてことにはもちろんならない。

「うんうん、素晴らしい資本主義批判だ」なのか「ふ、このゲームを浅薄に解釈する輩のいかに多いことか…これは資本主義に対する批判が込められたゲームであり、それに気づけないバカはゲームなどプレイしない方がいいさ…」なのかどちらかの反応を引き出す程度だろう。もちろん僕は後者だ。

また、資本主義批判に至る前にも主人公アルフェンは、細々とした教訓や社会批判をプレーヤーに提供してくれているが、それもなんらかの機能を果たすとは思えない。

例えば差別や分断に対する批判だ。初めは支配者階級であるレナ憎しの感情のままに暴れ回るジャックナイフだったが、レナだけが悪者ではないことに気づいていき「個人を全体化して、全体を個人化したらダメだね」という教訓を引き出す。これは分断や差別に対する批判と言っていい。

そしてプレーヤーは「うんうん、謂れのない差別はよくないよね。その人のことをきちんと見極めなければ」と同意するが、舌の根も乾かぬうちに「やっぱり低学歴の人は●●だよね」「やっぱり中国人って●●だよね」と言うだろう。謂れのない差別がよくないことは誰しもが知っている。だからこそ「自分は真にその人の能力や個性を見極めた上で区別をしているのだ」とか「差別はよくないと言っても、現実問題としてあるグループには傾向というものがあり、傾向に応じて対応を変えることは差別ではない」とかそういう自己正当化を行うのだ。「私は謂れのない差別を行っています」と宣言する人は、おそらく存在しない。この手の社会批判は自己正当化を引き出す以外に、なんら効果を発揮しないのだ。

他にもアルフェンは支配者すらも伝統的な価値観に縛られていることに気づき「自分の頭で考えて、自分で決定してこそ自由だよね」という教訓を引き出す。これもまた、「そうですよねー。自分で考えない人っていますよねー。ですが私は誰からも支配されることなく自分の頭で考えて行動していて、思考停止とは縁遠い人間ですが?」という自己認識を強化することになるだろう。「自分は洗脳され、思考停止している」という自己認識に陥るのはほとんど不可能だ。なぜなら、そのことに気づいている時点で洗脳は解けていて、思考停止していないからだ。

結局のところ、社会批判を秘めた物語がなんらかの機能を果たすことは少ない。社会批判とはメッセージを紐解くことを楽しむ遊びであり、それ自体が自己目的化しているのだ。

これを読んでいる人は、僕が「そんなんじゃダメだ!みんなパイプラインを爆破しに行こう!」という結論を引き出そうとしているように見えるかもしれない。しかし、そうではない。僕はこの現象を肯定している。

社会批判や資本主義批判は、それ自体が1つの様式美となっている。鑑賞して、解釈して、今僕がやっているようにあれこれと講釈を垂れることそれ自体が楽しいのだ。

僕は必要性や効率ばかりを追うことをやめて、金を批判し、自由な余暇の追求を至上目的とする新興宗教の開祖を名乗っている。つまり、革命の必要性すらも度外視して、余暇に変えてしまうことは肯定すべきことなのだ。

社会批判は遊びである。楽しい。もちろん僕はこのnoteであれこれと何かを批判しているが、楽しいからやっているだけなのだ。

すべては戯れのままに。さすれば救われる。

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