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歴史教育害悪論

僕は今から歴史教育害悪論を唱える。不要論ではなく害悪論であることがポイントだ。

ここでいう歴史教育とは、狭い意味での歴史教育だ。つまり現在、日本で行われている政治史教育のことを指す。

政治史とは当たり前だが国家によって書かれたプロパガンダを中心に展開するので、政治史を習うことは国家の価値観を自分の中にインストールすることを意味する。つまり「世界の中心に政府があって、世界にとって重要なことは政府によって決定される」という価値観だ。逆に言えば、庶民の行動も、主体性も、歴史も、基本的に3分クッキング程度に貶められる。山奥でこっそり芋を煮っ転がしていた人々は眼中にないのだ。あぁそういう人もいたけどね、僕たちには関係ない話だよ、と。

そして、国家の存在を絶対化していくこととなる。一揆は一揆として習い、テロはテロとして習い、戦争としては習わない。国家がやる暴力は一揆ともテロとも呼ばれない。

例えば坂上田村麻呂の東征をプロパガンダ通りに習えば「蝦夷という悪い奴らを倒した偉い人なんだなぁ」となるわけだが、普通に考えれば軍事侵攻であり民族浄化である。それなのに蝦夷が勝つ可能性なんて誰も考えない。蝦夷とは支配されて然るべき存在として理解される。

そうこうしているうちに国家の存在が絶対化していく。今の僕たちは岸田文雄のことをボロクソに叩くわけだが、それは国家と政府を別物として捉えているからだ。政府は批判されるが国家は批判されない。なぜなら、国家とは私たち自身だからだ。

そう思い込ませることに成功したのは近代の国民国家のシステムなわけだが、やはりその原点には政治史教育があったはずだ。しかし実際は私たちは国家ではない。庶民なのだ。それなのに庶民は重要なことは何もできないというプロパガンダを小学校から叩き込まれて、「だから何かを変えたきゃ選挙に行くか、選挙に出ようね」というオチで締められる。

国家とは本来は邪魔者であった。気まぐれに税を取り戦争をするポルターガイストのピーブスみたいな扱いだっただろう。しかし、それでもなお国家の必要性を庶民に押し付けようと国家は躍起になった。本来庶民の間で勝手に行われていた社会保障を国家が取り上げたのは、画期的なイノベーションだったと言える。国家の正当性の根拠になったからだ。とっくに骨抜きにされた僕たちは社会保障を童貞みたいにぎこちない国家に任せっきりで、その上政治史教育を受ける。国家信仰者の完成である。

世界史にやたらと詳しいおっさんは、政治史教育をすっかり間に受けて、自分は馬鹿で支配されるだけの庶民ではなく、支配者側の人間だと思い込もうとする。そういうプライドは結局のところ庶民の位置を下げる。庶民は大したことはできないという価値観が前提だからだ。

僕たちは本当に一票程度にしか歴史上の役割を果たせないのか? そもそも歴史上の役割を果たす意味はあるのか?

まぁ、そういうことを考えてもいいんじゃないかと思うわけだ。考えなくてもいいけどね。ともかく日本国なんて、日本列島を実効支配する暴力集団とでも考えておけばいいさ。実際そうなんだから。

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