まじでトイレを磨くというだけの【雑記】
嘘か本当かは知らないけど、スマホの画面は便器よりも雑菌が付いているらしい。それでも、スマホはその気になれば舐められても、便器は舐められない。なんなら触ることすら抵抗がある。そんな人が大半だろう。人間の清潔意識っていうのは、一定程度までは合理性があるのだろうけど、一定以上を超えれば信仰である。
そんなことを考えながら、この半年ぐらい放置し続けてきたトイレの黄ばみを落とすことにした。いや、これまでトイレ掃除の度にトイレ用のブラシで擦ったりはしていた。でも、取れなかったから、ずって見て見ぬふりをしてきたのだ。
あるときふと疑問に思う。僕はこの家を35年ローンで購入している。終の住処となるかもしれない。なら、僕はこれから死ぬまでトイレに行く度にこの黄ばみをみて見ぬふりをするという不愉快な人生を過ごすのだろうか?
否。そんな人生は真っ平である。
しかし、ブラシでは取れない。どうしよう・・・などと悩んだとき、脳裏にあの男の姿が浮かぶ。
人々の前に颯爽と現れ、誰も太刀打ちできない汚れをサッと落とし、人知れず消えていくあの男。
そう。激落ちくんだ。
「激落くんで落とせない汚れが存在するのなら、それはもはや汚れではなく模様である」という格言は有名である(嘘)。これで無理なら諦めよう。そう思った。
さて、トイレの黄ばみ箇所は便器の中である。
そう。水の中だ。
できることなら手を突っ込みたくはない。だからはじめはトイレ用ブラシの先端に激落くんを取り付けて、なんとか擦ろうとした。しかし、激落ちくんが取れたり、届かない場所があったり、ぜんぜんうまくいかない。
答えはわかりきっている。便器水の中に手を突っ込まなければならない。その結論は避けることはできないようだ。
僕は掃除が好きだが、便器に手を突っ込んだことはない。これまでの人生で一度もなかった。
深呼吸。
32歳の春。
はじめて便器に手を突っ込む。
新しい世界の扉が開いた。
なんだ。こんなに簡単なことじゃないか。
別に「そのドロドロに触れたら死ぬ」というわけでもあるまい。ただの水だ。水道水だ。水道水がたまっているだけの場所だ。たまたまうんこやおしっこが通過しているだけの場所だ。うんこもおしっこも、よくよく考えればおむつを替えるときにいつも触ってる。大丈夫、怖くない。
やってみるまでは恐れおののいていたのに、やってみたら大したことはない。人生の中でそんな経験は山ほどしてきた。そうだとわかっていても僕たちは、突っ込んだことのない便器の水を恐れてしまう。気になっている立ち立ち飲み屋に入りづらい。恥ずかしくてエロ本が買えない。好きな子をデートに誘えない。
でも、突っ込んでみたら世界が変わる。黄ばみは魔法のように取れていく。瘴気に穢された大地に春風が吹き抜け、小鹿がはしゃぎまわる草原へと生まれ変わっていく。
ピカピカに生まれ変わった便器を見て思う。いまなら舐めてもいい。いや、舐めなかったのだけれども、その気になれば舐められる。そんな気分になった。
やってみればよかったんだ。やってみればなにも怖くないんだ。だったら、視界に入った扉をぜんぶ開けてみようと思った。世界はこうやって自由な場所になっていくはずだ。
自由っていうのは、やりたいと思ったことを実行する能力を手に入れることだと思う。トイレをきれいにしたいと思ったときに便器に手を突っ込んで磨く能力を手にした僕は、昨日よりも少し自由になった。「やってみればたいしたことない」と知っていることも、それは一つの能力なのだ。
教育というものに役割があるとすれば、それは自由を拡張していくことだと思う。ただし、あくまで自由を拡張するのは本人でしかあり得ない。人をトイレに連れていくことはできても、便器に手を突っ込ませることはできない。
でもきっと、人はトイレに手を突っ込んでみたくなる。やったことないことをやってみたくなる。そうでないなら、赤ちゃんは永遠に寝転がったままミルクを要求していたはずだ。
僕たちは大人になってほんの少し自由を手にした。でも、その自由を使いこなすこともしていない。自由の新しい可能性を手にすることもしていない。
まだだ。もっと自由になれる。まだここは最高到達点ではない。
死ぬまでに、もっと自由になろう。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!