批判は届かない。世界は変わらない。

僕は毎日のようにここで色んな人やものを批判してきた。しかし、当たり前だけれど、こんな批判を現実世界で口にすることはほとんどない。ムカつく人が目の前にいても大抵の場合は水に流して、そのあと飲み屋で愚痴をこぼしたり、noteに思いの丈を殴り書きすることがほとんどだ。だって、大人だもの。

そして、僕は知っている。僕が批判しているような人は、僕のnoteを読みに来ないということを。そして読みに来てほしくもない。フィルターバブルってある意味で偉大だ。

僕はオラオラと何かを批判して、ストリートバトルを歓迎しているような身振りを示しているが、実際は喧嘩なんてしたくない。言い争いもしたくない。仮に僕が誰かと論争をしたところで、僕が華麗に相手の理論の隙をつき、相手がおろおろと崩れ落ちるような、鮮やかな論破劇を展開できるような見込みはほとんどない。僕はそんなに口達者じゃないし、僕の理屈は曲がりくねっていて、文章じゃないと伝わりにくいことがほとんどだからだ。結局、「こいつは何を言っているんだ?」という印象を周囲に与えた結果、僕は内心で自分の正しさを信じ込もうと、空洞の中で自慢の理論をリフレインさせることになるに違いない。

僕は、そんな事態を避けて何事もなく日常が平穏に過ぎ去っていくことを心の底から望んでいながら、それを望んでいないフリをしている。

大抵の批判は、批判すべき対象に届くわけではなく、共感してくれる人にだけ届く。万が一、批判すべき人に届いていたとしても、それはどこまでいっても他人事として処理される(「日本人って本当に非効率だよね?」と話を切り出して「本当にその通り!ウチの部長がさぁ…」と反応する人はいても、「非効率でごめん…」と反応する人に僕は出会ったことがない)。

では、僕は何がしたいのだろうか? たぶん「僕はこんなことを思いついたよ!」と誰かに知らせたいのだ。

それが誰かの役に立つかどうかは二の次で、結局は自分の虚栄心を満たしたいのだ。顔の知らないどこかの誰かに、僕の主張の素晴らしさを知って欲しいのだ。

確かパスカルも似たようなことを言っていた。自分が『パンセ』みたいな馬鹿みたいなボリュームのテキストを書き綴っているのも、結局、虚栄心なんだなぁといった内容だったはずだ(人間はそれくらい惨めなんだから、神を信じろとパスカルは言ってくるわけだ。うん、それもいいかもね)。

結局ここまでの文章も自分への深い反省に見せかけて、「僕はこんなに深く考えているのだ」というアピールに過ぎない。そして、この文章も…と合わせ鏡のように無限にループしていくのだ。ドストエフスキーの『地下室の手記』に描かれていた主人公は、こんな人物だった。

くだらないことを考えるのはやめようと、定期的に僕は決心をするのだけれど、結局この場所に戻ってくる。

こういうループを抜け出すには、やっぱり神が必要なわけだ。神というのは比喩的な表現で、「人権」とか「フェミニズム」とか「共産主義」とか「お金」とか「フォロワー数」とかそういうものだ。カントが言うように、感性がアクセスできない場所まで、理性を背伸びさせるのが人間というものだ。

僕にとっての神は、人の主体性と創造力だと思う。僕は、例外なく人は主体的であり創造的であり、それがいまは抑圧されているという信念を抱いている。そして、それが解放されるやいなや、世界は上手く回転し始めると信じきっている。これはかなりユートピア的だが、人間の理想はユートピア的だと決まっているし、構わないか。

でも、もしかすると、僕はこの信念が裁判にかけられることすらも恐れているのかもしれない。例えば資本主義と民主主義(とやら)による抑圧的な支配形式が崩壊して、人の自発性と創造力が解放されてしまえば、僕の信念が正しいのかどうか、その判決結果が僕の面前に引きずり出されることになる。

そんなことが起きるのは怖い。だから、何も変わりっこないことを願っているのだろう。

そんな空虚な身振りを維持したまま、僕は歳をとっていく。現実は少しずつ変わっていくから、身振りも少しずつ調整していく。気付いたときには、死んでいく。その頃には、今の僕とは違った人生の意味を見出して、そこそこに満足して死ぬのだろう。

あぁ、病んでるわ、自分。

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