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金・遊牧民・広告

今となっては広告嫌いの僕だが、ここだけの話、コピーライター養成講座なるものに通っていたことがある。そこで講師を勤めていた電通のコピーライターがこんなことを言っていた。

「モノは溢れて、性能は似たようなもの。だから広告で価値を作らなければならない」

当時の僕は、ふむふむ‥と納得してしまった。今となれば、その言葉の真意が理解できる。

要するに「必要のないものを売りつけろ」と、そのコピーライターは言っていたのだ。

モノが売れなくなった。でも、モノを売らなければならない。コピーライターはどうしたのか?

ちょうどいいところに隙間があったのだ。第三世界の奴隷に作らせた大量生産品によって地域文化と地縁が消えて、そこにポッカリ穴が空いている。『魔女の宅急便』で描かれていたように、都市はそういう場所なのだ。

広告は「その穴を埋めて見せます」とでも言うように、コト消費だとか、ストーリー消費だとか、空疎なブランド価値を捏造する。

もちろん、そんなモノでは心の隙間は埋まらない。むしろ、新しいブランドを購入するために文化を捨てて灰色のオフィスに通い詰めることになった。ようやく得た商品も文化にはならない文化のセルフパロディであり、僕たちは観光客としてそれを消費させられているに過ぎない(ヒップホップも、パンクも、共産主義も、もはや原初のエネルギーは失われて、文化のセルフパロディになった)。

あるいは、メタバースだとかNFTだとか言って、サイバー空間で帝国主義ごっこを続ける人たちもいる。自分は資本主義の恩恵を受けるブルジョアジー側であると思い込みたい人たちは、ジャックドーシーのツイートを大金で買い取るなどのパワープレイに騙される。

そんな空疎な風潮には踊らされないことを心に誓ったシニカルな厨二病患者は、せっせとコスパ見せびらかし消費に邁進する。「私の暮らしはこんなにもコスパがいいのです」と見せびらかすことをライフワークとする人たちだ。これも帝国主義の果てに生まれた病的なカウンターカルチャーだ。

サイバーパンクに限らずSFの世界では、たいてい肥大化した企業と過度な都市化が描かれる。そうでない未来を僕たちは想像できないのだ。コロナは大河に小石を投げ込んだに過ぎない。

僕たちは正面切って革命を起こしたり、パイプラインを爆破したりするエネルギーを失った。かつては耐えがたかった資本主義は、いまではそこそこに楽しめるようになったからだ。フォードやジョブズ、ゲイツ、松下幸之助のようなビジネス芸人たちが、仕事そのものを消費活動に変えてしまった今、僕たちは平日にすらついつい自己実現させられてしまう。

幼少期から僕たちはレジャー施設で楽しくないものを楽しいと思い込むトレーニングを積んできた。だから、楽しい写真を撮ってインスタグラムにアップするという行政手続きと、ビジネス芸人の訓示をTwitterで拡散するという名刺配りを忠実にこなす。

こんなことを認識してしまった以上、僕はこのラットレースを楽しめない。

レース会場をぶっ壊す選択肢が想像できない以上、会場で飲み食いしながらそのままバックれては、またやってきて飲み食いする。そういう遊牧生活を楽しむしかない。

資本が生み出した商品を消費せずに、思いっきり浪費する。で、どこかへバックレて、町内会のホーミーたちと危険なパーティでもしとけばいいね。やかんで茶を沸かすことも、家庭菜園も、酒税法違反の延長線上にある。そういうプロセスで市場からバックレる。

楽しむことを強いられずに、僕は楽しんでやるよ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!