自由と、子育てと、自動車と、家畜と、
子どもは自由が好きだ。それなのに大人は子どもの自由を制限しなければならない。なぜなら、子どもを道で自由にすれば、自動車に轢き殺される可能性があるし、他人の敷地にズカズカと侵入するからだ。
もうすぐ2歳になる息子と散歩をしていると、僕は道路の8割を自動車が我が物顔で占拠していることや、街中が金網で仕切られていることに、恐怖と疑問の入り混じった感情を覚える。
僕たち親子が存在を許される場所は限られている。申し訳程度に残された道路の隅っこと、コンクリートに囲まれた公園。あとは金を払って所有した家の中。
「ルールを守って遊びましょう」と押し付けられるルールは、僕たちの知らないところで作られる。歩道や公園の面積が今の半分になっても、「ルールを守って!」と言われるのだろうね。
「自由を与えてやろう!」と恩着せがましくもスペースを与えられる地鶏たちは、確かにブロイラーたちよりもマシな環境にいるかもしれない。だが、押し付けられた自由ほど窮屈なものはない。自由であるかのように振る舞うことを強制されるのだから。「こんなものは自由ではない」と反抗すれば、それは世間知らずのわがままだとみなされる。
僕たちはブロイラーではないかもしれないが、地鶏のような世界に生きている。
金子みすゞの『お魚』という詩がある。僕はこれがあまり好きではない。家畜は「飯を与えているのだから食われて当然」というような暗黙の前提が存在していて、飯を取りに行く自由が奪われているという事実を無視しているからだ。
海の魚は自由だ。自由に生きた先に食われるのなら、嫌だろうけど、別にいいんじゃないだろうか。
最近、なぜ自分が畜産のことを嫌悪しているのかを理解した。それは家畜たちは自由を奪われるからだ。命を奪われるからではない。
命は奪い、奪われるものだ。だから、命を奪うことは生命の冒涜ではない。しかし、自由を奪われるのは、耐え難い苦痛なのだ。
習慣という力は、不自由な自分を納得させるエネルギーになるが、それでも苦痛は苦痛だ。僕たち人間はなまじ大脳が発達していて、不自由を自分に納得させる理屈をひねくり出すのが得意だから、僕たちは不自由な暮らしをしながらもこれが幸せだと思い込んでいる。柵の向こう側に行くことを考えすらしない。
僕の息子は何かを強制されることを極端に嫌がる。不自由に屈する前の人間の姿だ。これを強制的に押さえつけて行くことを「教育」と呼ぶのなら、僕は教育なんてしたくない。
いつか自動車と柵のない世界に行きたい。そこでは動物も子どもも狭いスペースに閉じ込められることはなくて、自由に生きられる。大人は少しためらうだろうけど、いつか自由を楽しめるはずだ。いいなぁ、そんな世界。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!