見出し画像

音楽フェス参戦は労働か?【雑記】

四歳児と一歳児を連れて音楽フェスに行けるなら、なんだってできる。そんな自信をつけられた一日であった。

そもそも僕はあまり音楽フェスが好きではない。早起きして、大量のスポーツドリンクを詰め込んだクーラーボックスを担ぎながら、何万という観客がひしめく炎天下で一日を過ごして得られるのが、遠くのモニターに映るアーティストを遠巻きに眺める体験である。しかもバカ高いチケット代を払うだけではなく、ペットボトルのお茶が三百円とか四百円とかするレベルのインフレが起きている現場で一日を過ごさなければならないのだ。ほぼ金を払ってやる苦行だと思っていた。

実際、そんじょそこらの労働よりも、明らかに苦行である。ふつうの人は週五労働には耐えられても、週五フェス参戦は身体が持たないだろう。

とはいえ久しぶりにやってみると、この苦行も悪くないと思った。幸いにして気温もさほど高くなく、雨にもさほど降られることなく、比較的快適に過ごすことができたし、なにより子ども含め無事に一日をすごすことができた。大変ではあったが、大変なことは、嫌な思い出になるとは限らない。むしろ、自分たちの意志と力で乗り越えた大変さは、いい思い出になる

しかし、改めて考えると不思議である。ここで得られるものはなんなのだろうか? 音楽が楽しめることなのだろうか? それは家のスピーカーで流すのとは、どれくらい違うものだろうか? あるいは有名なアーティストを生で見れることなのだろうか? どうせモニターを眺めているわけだが、それは家でDVDを観るのとなにがちがうのか?

こうした問いかけは野暮であるとされている。では、なぜ野暮であるとされるのか? それは人が正面切って認めることができないからである。本当は自分は音や視覚情報を求めているのではなく、労力をかけてコミットする行為そのものを欲しているのだと。言い換えれば、ライブはコミットするという行為を引き出すためのトリガーにすぎず、むしろ人は欲望の方を欲望していると。そして、高い金を払うことすらも、そのコミットの一部になっていると。

欲望に関する一般的な言語や概念は、まだこの現象を説明することはできない。「まぁまぁライブってそういうもんやん?」っていうやんわりとした説明しか提供してくれないのだ。それはこの労働社会にとっては都合のいい事態であろう。もし人はコミットそのものを欲望するという事実が明るみになれば、労働と娯楽の区別が曖昧化してしまう。そして、その定義を見直さずにはいられなくなる。労働は、他者より強制されて行う不愉快な営みであるという定義に到達せずにはいられなくなるのだ。

改めて考えてみよう。苦労して音楽フェスに参戦することは望ましい娯楽であり、みんなで協力して家を建てることは労働になるのはなぜなのか? どちらも間違いなく苦行であり、大変である。程度の差こそあれどちらも楽しむためのルールやノウハウを必要とする。そして大トリまで楽しみつくした快楽と、完成したでっかい家を眺める快楽は、きっと同じ種類の快楽である。それなのに、家を建てることが快楽とみなされることはないか、稀である。

なぜなら、そこに至るまでのありとあらゆる強制が彼のモチベーションを傷つけているからだ。支配的な先輩や現場監督。意味があるのかないのかわからない法規制に関する書類づくりや現場ルール。無意味に押し付けられた納期。それらに由来する長時間労働。しかし、こうした強制によって損なわれていてもなお、でっかい家を見つめる快楽は消えない。そうでなければ建築作業に従事する人間はもっと少ないなずだ。

では、彼らにまるっきり自由が与えられたら? 社会が彼らを経済的不安というムチで叩くことをやめたなら? 建築工事も、そのほかの労働も、なにもやる必要がないとしても路頭に迷うことがないのなら? それでも彼は自らの意志でなにかにコミットし、達成感を得られる体験を欲するはずだ。

僕たちは労働の外側においては、娯楽を欲望するように教わってきた。快楽を押さえつけて頑張って労働して稼いだお金で、快楽を思う存分追求する娯楽を楽しむことこそが、人生の醍醐味であると理解してきた。なぜなら、資本にとっては音楽フェスが娯楽であり、建築工事は労働でなければならなかったからだ。誰もがセルフビルドするなら、ハウスメーカーは儲からない。ハウスメーカーが利益を確保するために、「そういう生産活動はプロに任せてね」と、広告は僕たちに語り掛ける。そして、フェスの主催者が利益を確保するために、「休日は音楽フェスみたいなものを娯楽として楽しんでね」と、広告は僕たちに語り掛ける。

こうやって労働と娯楽は人工的に分断されてきた。しかし、本当は同じ種類の快楽なのである。なら「自由を与えた途端に人は怠ける」だなんて斜に構えて言うのは、広告プロパガンダに踊らされた結果だとも言える。

ヘンリー・デイヴィッド・ソローは『ウォールデン』の中で隣人に家の建築作業を手伝ってもらうエピソードを書いていた。そのなかで彼は「別に自分ひとりでできるけど、手伝わせてあげた」といったことを言っていた。ソローは人間の欲望を理解していたらしい。コミットできるなら、それが重要な目的であったなら、ほとんどなんでもいいのだ。作業そのものに取り組むことよりも、目的がない状態のほうが人間は苦しいのだから。

余暇でフェスに行き、旅行に行き、バーベキューに行き、キャンプに行き、と、あくせくと動き回る人は、目的を欲している。そうでないインドア派でも、アニメを何本観るとか、ゲームをトロコンするとか、そうした目的を立てずにはいられない。それは基本的に広告に許された快楽の追求に向かっているわけで、そもそも広告づくりすら経済的不安というムチに駆動された労働として行われているのだ。広告をやめて、人の快楽が自由にどこにでも向かうようになれば、なにをやってもいいのだ。家を建ててもいいし、フェスに行ってもいい。すべてが遊びに変わっていくはずだ。

人が音楽フェスに自発的に参戦するなら、でっかい家を建てたりする営みも自発的な祭りに変えられる。これはさほど突飛な発想であるとは思えない。人々が音楽フェスに自発的に参戦している事態は、それなりに奇跡的な現象である。それができるなら、建築作業で同じことができないとは思えない。

音楽フェスの休憩所では、次のような光景を見かけた。スタッフが人工芝をコロコロする様子を見て、一人の子どもが「やりたい」と言い出した。そしてその子どもの様子を見て、ほかの子どもたちも「やりたい」と言い出し、最終的にコロコロを人気アトラクションのように順番待ちする結果になった。スタッフにとっては金のために渋々やる労働であった作業も、子どもたちにとっては娯楽なのである。そして、子どもたちにとってフェスに一日中付き合うことの方が労働であろう。子どもはまだ労働と娯楽を分断する思考方法が十分に身についていない。「コロコロは労働なのだから、休日にやってはいけない」といった道徳が染みついていないのだ。これが人間の本来の姿に近いのだろう。

そんな光景をみていたら、労働なき世界が不可能だなんて、どうしても思えないのである。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!