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眠れない夜があってもいいじゃないか

眠れない夜があることは、何もおかしなことではない。例えば今日。

おかしいのは、眠れない夜がやってきても、次の朝いつもと同じ時間に目覚めなければならない世界の方だろう。

僕は今年の8月。眠れない夜を2度経験した。その次の日には仕事を休んだ。そして「それくらいで休むな」と言われた。

腹が立って、なんやかんやあって、精神科に行った。すると、適応障害だと診断された。たった数日、眠れなかっただけだというのに。

僕が辛かったのは眠れなかったことじゃない。眠れなかった原因も、きっと些細なことだ。ただ、眠れない次の日に「休みたい」と言えないことが耐えられなかった。

多くのサラリーマンは似たような状況だと思う。眠れない夜もたまにはあるだろう。そんなときに「眠れなかったから休みます」と、上司にLINE一本だけ入れて、なんの負い目も感じることなく休める人がどれだけいるだろうか。

多少眠くても無理やり出社して、虚な目でモニターを眺めて、なんとかやり過ごすのが普通だろう。

そんな体調で成し遂げられる仕事なんて、きっと高が知れている。ミスも増えるだろう。それなのに、なぜ出社するのか?

本来、自分が最も生産的に働けるやり方を知っているのは自分以外あり得ない。自分の判断では間違いなく休んだ方がいいと感じているはずだ。それでも出社しないという選択をすれば、それは単なるサボりだとみなされる。

人は怠惰であるとか、隙さえあれば人は義務から逃げようとするとか、そんな風に考えるのであれば、なにがなんでも出社するようにプレッシャーをかけることは理にかなっている。

しかし、そもそもサボりたいと感じるのなら、サボりたいと思うような仕事をしない方がいいに決まっている。なぜなら、人は誰かの役に立つことや自分の能力を発揮することを欲望するのだから。恐らくのその職場では、彼の欲望も能力も活かされることはなく、やりたくもないことや、やっても意味ないと感じるようなことを命令され、しぶしぶやっているのだ。

そのようなとき、人は怠惰に見えてしまう。怠惰とは、特定の義務との間にしか発生しない現象だ。つまりやるべきことがあってそれをやらないことが怠惰なのだが、このとき「やるべきこと」を誰が決めたのかが重要になる。

それは上司であり、社長であり、会社であり、世間であり、市場なのだ。それが本人にとっての「やるべきこと」とズレていたとき、人はモチベーションを喪失する。

彼の欲望と能力を発揮できることをやるべきなのだ。それは彼の判断で休みを取ることも含まれる。

そのとき、労働は労働であることをやめて、労働なき世界は実現する。もちろん、その世界がなんの悩みもないユートピアであることはあり得ない。人はあらゆることに悩み続けるだろう。悩み過ぎてまた眠れなくなるときもあるだろう。

適応障害などと、ラベルを貼ってもらう必要はない。彼が休むべきと判断したなら、休めばいい。それくらいの余裕はこの社会にはあるはずだ。

眠れない夜があってもいいじゃないか。

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