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アンチワーク哲学による意識高い系解釈

「労働者の主体性が奪われている」的な方向性で労働批判、資本主義批判を行おうとすると、ついつい人口の大半が工場のラインに立って、ベルトコンベアに流れてくる部品を延々とハンダ付けしているような社会を想定しがちである。

その社会では労働者はパノプティコンのような施設に鍵をかけて閉じ込められて、鞭を打たれながら、あるいは鞭なしでも規律を持って働くように監視されながら、歯を食いしばりながら労働する。

ともすれば僕もそのような社会の把握の仕方をしているかのような書きっぷりに見える。

だが、実際のところ、このような職場は現代では(特に先進国では)ほとんど見られないことは明らかだろう。ビョンチョル・ハンが言うように、現代はパノプティコンに象徴されるような規律社会ではなく、能力社会なのだ。

規律社会とは、病院、精神病院、監獄、兵舎、工場といった制度に支えられた社会であったが、それはもはやこんにちの社会ではない。こうした社会はとっくに別の社会に取って代わられている。それはつまり、フィットネス・スタジオ、オフィスタワー、銀行、空港、ショッピングモール、遺伝子研究室といった制度に支えられた社会である。21世紀の社会はもはや規律社会ではなく、能力社会である。この社会の住人たちは、もはや「従順な主体」ではなく、能力の主体である。彼らは自分自身を経営する経営者である。

ビョンチョル・ハン『疲労社会』

ビョンチョル・ハンは哲学者に特有の難解な表現を用いているが、要するに意識高い系が表舞台に現れ、意識高い系が社会を覆い尽くしていることを指摘している。

意識高い系は時計をチラチラと見つめながら単純作業に殉じて定時がきた途端に足早に酒場へと繰り出すわけではない。リーダーシップとクリエイティビティを発揮しイノベーションを推進しようとジャケパン姿でMacBook Airを叩き、スライドショーを作成したり、zoom会議を行ったりし、定時が過ぎてからもシェアオフィスに通ったり、セミナーを受講したりするのである。

このような変化が起きた理由は、フォーディズム的な生産の限界にある。大量に自動車を作れば富が手に入っていた時代が終わり、自動車が売れなくなった。資本は富を生み出す最短の方法は、労働者が能力の主体となることであると気づいた。

生産性が一定の水準に達すると、規律社会と禁止と否定図式は限界に突き当たる。そして、生産性をさらに向上させるため、規律という物の見方は、能力という物の見方と「できる」の肯定図式に取って代えられる。(中略)規律に従順な主体よりも、能力の主体の方が迅速で生産的なのである。

ビョンチョル・ハン『疲労社会』

ここでビョンチョル・ハンが「生産性」という言葉を無批判で使用していることには注意すべきだろう。ここでいう生産性とは「金を稼ぐこと」を意味していて、文字通りの「生産」を意味するわけではない。かつては生産することで金を稼げる時代だったわけだが、今や生産しても金は稼げない。広告とマーケティングで売りつけたり、口八丁の営業で売りつけたり、無意味にニーズを作り出したり、複雑な保険商品を生み出したり、そういう努力の方が金を稼げるような時代になっている。Googleとメタの収益やYouTuberや芸能人の収入の大部分が広告費であることを思い出そう。

文字通りの生産は、ラインに立った労働者が心を殺して作業することで効率がアップする側面がある。一概にそうは言い切れないものの、ある程度は効果的であることは間違いない。しかし、広告やマーケティングといった活動には単純労働の要素はない。額に汗を流してキャッチコピー1000本ノックをやれば必ず売れるという保障はないのだ。

となると、労働者の主体性とクリエイティビティを動員せざるを得ない。「こんな企画が流行るのではないか?」「こんなセールストークなら刺さるのではないか?」とそれぞれが考える必要があるのだ。そうなると、スケジュール管理も本人の裁量に任せた方がいいかもしれないし、フレックス制やリモートワークもいいかもしれない。結果、いまの能力社会の完成である。

さて、これは果たして良いことなのだろうか? 従順にベルトコンベアの前に立ち尽くすのではなく、ジャケパンでスターバックスで仕事ができるようになったことで労働者は救われたのだろうか?

実際に救われた人が一定数存在することは間違いない。自分の仕事に意義を感じて、主体性とクリエイティビティを発揮しながら活躍して、自分の人生に満足している人はいるだろう。

アンチワーク哲学は、こういう意識高い人々を批判しようというつもりはさらさらない。繰り返すが、アンチワーク哲学は本人が自発的に取り組んでいて、楽しいと思えるならそれで良いと考える。

では労働の問題は解決済みなのかと言えば、もちろんそうではない。ここで注目しなければならないのは、主体性やクリエイティビティが何のために動員されているかという点である。

ずばり生産性のためであり、金のためである。原則として、会社が金を稼ぐために人々の主体性やクリエイティビティは引き出されようとしている。労働者にとっては、会社が金を稼ぐことは重要である。なぜなら会社から自分の給料が支払われているのだから。

となると労働者はこの生産性という至上目的に同意せざるを得ない。故に「主体性やクリエイティビティを持て」という会社からの要請に従わざるを得ない。

しかし一方で、金を稼ぐことは社会の役に立つことと同義ではないことは明らかだ。

金を稼がなければ会社は存続せず、労働者は路頭に迷うことになるため、主観的に考えれば金を稼ぐことには意味がある。しかし社会全体としてみれば、社会の構成員全員が金を稼ごうと躍起になっているということは、社会全体で銃口を突きつけあってゼロサムゲームをやっているのに等しい。つまり社会全体としては非効率なのである。

そして労働者からしても、「あぁ人の役に立っていないなぁ」という実感がつきまとう可能性は高い(その結果がブルシット・ジョブという用語のスマッシュヒットである)。

つまり「金を稼ぐ」という単一目的に完全に同意できているならば、何の迷いもなく完全なる自発性とクリエイティビティを発揮することができるわけだが、「金を稼ぐ」という単一目的に盲従できないならば、依然として支配されているという状況は続くわけだ。にもかかわらず主体性を持てだとか、クリエイティビティを持てだとか言い立てられるのである。

となると実質的にマルクスが思い描いたような工場労働者と僕たちは大差ない。単に金を稼ぐ最短ルートが変わっただけであり、僕たちは資本が金を稼ぐために馬車馬のように働かされているわけだ(逆に単純労働にやりがいを見出した労働者もいたはずだ)。

だからこそアンチワーク哲学はベーシック・インカムに固執する。BIは「金を稼ぐ」という必然性を部分的に失わせる。無意味に金を稼ぐ必要がなくなるなら、人々は真に意味があると感じる行為に集中できる。本当に意味があると思うことをやることこそが、真の主体性であり、真のクリエイティビティはその時に発揮できるはずだ。

また、意識高い系を批判しないとは言いつつも、僕は意識高い系をあまり良くは思っていない。というのも、マーケティング合戦はブルーカラー労働者や消費者を搾取し、環境を破壊する傾向にあるからだ。しかし、意識高い系すらもBI下では「金を稼ぐ」という目的を疑わざるを得なくなる。故に意識高い系の覇権もBI下では失われていくことだろう。

さて、読者諸君の中で特に鋭い部類の方々は僕が狭義の意識高い系しか語っていないことが気になっている人もいるだろう。別のタイプの意識高い系、つまり社会貢献に身を捧げるタイプの意識高い系は、明らかにここまでの議論には当てはまらない。

だが、僕からすれば社会貢献に身を捧げるタイプの意識高い系について言うべきことはほとんどないのである。彼らは自分の人生に満足しつつ、かつ社会に貢献している。それは素晴らしいことである。

唯一悔やまれるのは彼らも最低限は金を稼がなければならないという点だ。社会貢献しながら金儲けをするようなソーシャルビジネスとは一種の曲芸であり、難易度は高い(「ソーシャルビジネス」という言葉が存在すること自体がその証拠だと言っていい)。社会貢献型の意識高い系はサーカスの輪を潜り抜けるようにして社会貢献をしているわけだが、BI下ではわざわざサーカスの輪を潜り抜けることなく、ストレートに社会貢献ができるようになる。そうなった方がいいことは明らかだろう。

というわけで、以上がアンチワーク哲学による意識高い系解釈である。次は何を解釈しようか。要望がある方はコメントを。書くかもしれないし、書かないかもしれないのだ。

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