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劇場版PSYCHO-PASS PROVIDENCEを観たけれども

その感想を書こうと思う。特に大したことは書かない。単に面白かったという話をネタバレ全開で書く。

時系列的には2期と3期の間らしい。ということを映画が始まって10分経ったくらいで理解した。2期と3期の間には埋め難い謎がいくつも残されていたので、この映画は辻褄を合わせていくだけの詰め将棋みたいな物語になるのではないかという懸念は、鑑賞中ずっと付き纏っていた。

実際、詰め将棋みたいな話だった。だが、しっかりと映画館で鑑賞するための見せ場をたくさん用意してくれていたので、退屈するだけの2時間にはならなかった。

なんといってもPSYCHO-PASSはシナリオがわかりにくい。あれこれと難しい学術用語を駆使しながら、ややこしいテーマと複雑な駆け引きが交錯している。映画が終わったあと、後ろの席の女性が隣の友達に対して「いや、ストーリーわからんねん!」と突っ込んでいたが、僕も全く同感だ。細かい描写は正直一度観ただけでは理解できない。

だが、ぶっちゃけて言えば観客は好きなキャラクターとアクションを観に来ている。僕だってそうだ。キャラクターが魅力的でアクションがカッコよければ楽しめる。

そう考えるとこの映画は素晴らしかった。ナイフや銃、義手を駆使した戦闘。派手な爆発。ホログラムの馬を陽動に使った攻撃。死に際の真に迫ったキャラクターの表情。埋まりきらないキャラクター同士の距離と葛藤。

PSYCHO-PASSの代名詞的なドミネーターがいつものように無力化され、当たり前に銃撃戦を見せつけられる展開に飽き飽きしていた中で、最後の最後にド派手なドミネーターの見せ場を用意してくれたのは、やはり「俺たちのPSYCHO-PASS」という興奮を味わわせてくれた(そして狡噛は例の如くさっさとドミネーターを壊して銃で殺しに行っていたのも、「やはり!」という感覚だった)。

ただ、問われているテーマとしては良く言えば一貫しているが、悪く言えばマンネリしている。PSYCHO-PASSはシリーズを通して「AIによるシステムか?人による法か?」というテーマが問われていて、今回も例外ではなかった。「まだその話やってるのかよ」という印象を抱かずにいるのは難しい。

もちろんそのテーマを極限まで追い求める常守朱が頑張っている姿には共感できるものの、テーマ自体にはそこまで深い思い入れを持てないのが本音だ。なんといっても僕は槙島聖護の大ファンで、アンチシビュラシステムなのだから。

常守朱はシビュラシステムと法のバランスを追求している常識人だ。可愛いけれど、僕としてはもっとラディカルな答えを見てみたい。

また、僕自体がデータ駆動型の社会をイデオロギー生成装置としかみなしていないが故に、今回の争点となっていた紛争の起こりやすさを数値化した文章(名前は忘れた)というものに対しても「そんなに騒ぎ立てるようなものか?」と思わずにはいられなかった。そもそも紛争なんて前提条件を揃えられないテーマをデータでどうこうできるようなものではないのではないか?という疑問はどうしても拭えず、そこにも違和感がある。恐らく伊藤計劃の『虐殺器官』から着想を得ているようだが、伊藤計劃ほどのリアリティのある描写には見えなかった。

また、これは推測なのだが、恐らく今回の映画の作画には画像生成AIを活用しているのではないかと思う。たぶん。Midjourneyで画像を作ったらこんな背景になりそうだなぁという描写は、ありきたりなサイバーパンク的な「お馴染みの古臭い未来」の風景であり、僕たちは『ブレードランナー』の頃からフェチ的にそれを追い求めているものの、流石に既視感がある。かっこいいけど、そろそろ新しいSF像を焦がれる自分もいる。

もちろん、10年前の作品なのだからやむを得ない。だが、それに代わるSF像はまだ登場していない。『horizon』がワンチャンあるか?といったところだろうが、あれも突き詰めればポストアポカリプスだ。というわけで21世紀のウィリアム・ギブスンの席は未だ空席だ。「だったら俺がSF王になりてぇ」とバギーのように名乗りをあげてもいいかもしれないね。

話が逸れてきた。PSYCHO-PASSの話だった。今回一番印象に残ったシーンは引用大好きマンの狡噛慎也が相手の引用した本のタイトルが分からずにググっているシーンだった。あの狡噛でも知らないことがあるんだなあ‥とほっこりしてしまった。

まぁとにかく面白い映画だった。未視聴の人は観てみるといいと思う。あ、雑賀譲二は死ぬのでよろしく。あと常守朱は禾生局長を殺して捕まるんだけどね。

それじゃあ。

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