頭に葉っぱを乗せたお兄ちゃんは、鈍臭いのか?

もちろん、わざとではない。今日は風が強い。街路樹が揺れて、髪の毛をかっこよく染めた大学生くらいのお兄ちゃんの頭に葉っぱが乗ったのだ。たまたま。

僕が歩いていたのは、そのことに気づかないほど遠くはなく、声をかけるほど近くはない場所だった。

声はかけなかったけど、僕はこう思った。

「かわいそう」

なぜか? 周りの人に「あの人、葉っぱ乗ってるwww」と馬鹿にされるだろうと思ったからだ。

たぶん、あなたが僕と同じ状況にいたら、同じように感じると思う。

でもこれ、改めて考えると不思議なのだ。

一体、「あの人、葉っぱ乗ってるwww」と、純粋に馬鹿にするのは誰なのだろうか?

僕の予想では、大抵の人が「『あの人、葉っぱ乗ってるwww』と馬鹿にされるだろうなぁ、かわいそう‥」と思うはずだ。

風が吹いて、運悪く髪の毛に葉っぱが乗ることがあっても別に不思議じゃないし、だからといってその大学生が鈍臭いという評価には値しない‥ということは誰しも承知している。

それなのに、「葉っぱが頭に乗っているということは、その大学生は鈍臭い」と短絡的な評価を下す愚者が想定されているのだ。そして、大学生の事情に配慮できる自分を特別視している。

この構図、よく見かけると思わないだろうか。

例えばスーツを着ることについて50代くらいのおっちゃんに意見を聞けば十中八九このように答えるだろう。

「いまどきスーツに拘るのも時代遅れやけれども、まだまだスーツに拘ってる人は多いから、やっぱり着ている方が無難」

つまり、このおっちゃんはスーツが非効率だと承知している。しかし、スーツが非効率だと気づかない愚者を想定した結果、スーツを着ることを推奨している。

この態度は推奨から、強制、そしてスーツを着ていない人への迫害へと、いとも簡単に転化する。

「スーツが非効率なのは承知しているが、着た方が無難」→「着るべきだ」→「それなのに着ていない奴がいる」→「けしからん!」

こうして、ミイラ取りがミイラになる。つまり、このおっちゃんは、自分が非効率だと暗に馬鹿にした愚者そのものになるのだ。

宗教とは、自分が信じる必要はなく、信じている主体を想定するだけで成立すると、確かジジェクが言っていた。ラカン的にいう「大文字の他者」とはこういう愚者のことを言うのだろう。

おっちゃんは、あくまで「自分は理性的な人物」という自己イメージを維持したままだ。でも、客観的に見れば、宗教とはこういう状況を指す。

僕たちは、想定される愚者のイメージをメタ的に感じ取りながら、気づいたときには愚者になる。葉っぱを頭に乗せたお兄ちゃんは、やっぱり鈍臭い奴だと思われるのだ。

人間って、不思議。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!