一億総観光客の時代

文化は、必然の中の偶然から生まれる。例えば海がない長野県では、野菜を保存する方法として、塩漬けではなく乳酸菌による発酵を選んだ。塩がなかったからだ。そうして、すんき漬が生まれたらしい。

必然性に迫られる中で人々が偶然に選んだ選択が文化だ。それが歴史を持てば伝統文化になる。

伝統文化はたいていは儲からなくなり、後継者不足で滅ぶ。

伝統文化の蘇り方はシンプルだ。ビジネスセンスを持ち合わせた若い後継者が「伝統」にスタイリッシュなブランディングとマーケティングを施して、高値で売り捌く。これだけだ。

ボードリヤールが言うように、安価な物が溢れた現代では消費者は差異のシンボルを求める。歴史とストーリーが付与された伝統文化は大量生産品の代替品としてうってつけなのだ。

伝統文化はマーケティングとブランディングという生命維持装置に繋がれて、かろうじて延命している。しかし、アナキンスカイウォーカーとダースベイダーがもはや別人であるように、それはもはや別物なのだ。

それは観光客向けの紛い物に過ぎない。

大阪の黒門市場は、もはや地元の飲食店に魚を卸して儲けているわけではなく、店先の汚いパイプ椅子で観光客に魚の切れ端を食わせて儲けている。「黒門市場で魚を食べる」という差異の体験をブランディングした結果、生命維持装置に繋がれたわけだ。

もはや伝統文化を日常的な地産地消の対象にするのは難しい。金がかかるからだ。ロレックスのショップの入り口を守る警備員が一年中そこに立ち続けてもロレックスを買えないように、商品はそこにいる人には手が届かないものになっていく。

僕はこれは社会システムの欠陥だと思っている。地域で採れた素材で、地域のスタイルで、地域の人が、何かを生産して、地域の人が享受する。こんな普通のことができなくなり、僕たちはわざわざ第三世界の奴隷に物を作らせるという非効率に甘んじている。

何が原因かと問われれば、資本主義であり、市場であり、広告であり、企業だ。左翼っぽいことを言うが、たぶんそうなのだ。

馬鹿馬鹿しくなるね、ホント。

『逝きし世の面影』じゃないけれど、文化は途絶えた。僕たちの文化大革命は知らず知らずのうちに徹底的に文化を殺した。

さて、どうしたものか。文化を無条件で守るべきとは思わないけれど、新しい暮らしはもう少し魅力的にならないものかね。

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