見出し画像

「愛」を崇めたてるな 

愛というのは無根拠の思いやりだ。見返りを求めない思いやりだ。それは日常に溢れている。

妻のために水筒にお茶を入れてあげた。これも愛だ。友達の頼みを聞いた。これも愛だ。息子にオムレツを作ってやった。これも愛だ。知らない人のためにエレベーターを開けておいてやった。これも愛だ。

見返りは求めない。心のどこかで少しは求めているかもしれないが、だからと言って利他の心が全て無効になるわけではない。

人間の動機は基本的に混乱している以上、見返りを求める心の中にも利他心がある。だから、ほとんどの人間のほとんどの行動は「愛」と言って差し支えない。

それなのに「愛」のハードルは、やたらと高くみえるし、やたらと難しいことであるかのように扱われる。

まるで人の行動は100%利己的であり、利他的な行動をすることは人間にとって奇跡のような例外であるかのようだ。そんなわけがない。人間の心に100%はない。だから自然科学と人文科学が存在するわけだ。

愛を崇めたてることは、中二病的な性悪説を助長する。性悪説が広まって良いことなんて一つもない。

性悪説を突き詰めれば世界中に刑務所と防犯カメラと官僚制を敷き詰めなければならなくなる。オカンの家事労働を監視カメラとタイムカードで管理して、労働生産性をエクセルにまとめるような世界が生まれる。そんな世界に誰が住みたいというのだろうか?

性悪説は管理と支配を正当化するロジックに直結する権力者に都合のいい風潮だ。愛崇拝が性悪説に繋がる以上、愛崇拝は権力を正当化するロジックになる。

あ、だから広まっているのか‥。


愛は日常に溢れている一方で、永遠の愛などというものは幻想に過ぎない。見返りを求めない心で相手に貢献をしていても、ふと「あれ、俺なんでこんなことしてるんやろ? あいつは何にもしてくれへんのに‥」と我にかえる瞬間はある。

かつて僕は結婚式場で永遠の愛を誓ったわけだが、あくまであれは「その時点での見込み」に過ぎない。あまりにも僕からの愛が搾取されるようになれば、僕だって愛想を尽かすだろう。

イエス・キリストも1回や2回なら頬を打たれても許すだろうが、1日5回左右の頬を打つというルーティンを組む嫁と結婚したら、さすがにキレるはずだ。

永遠の愛でなければ本物の愛でないのなら、そんなものは存在しない。その考えは潔癖が過ぎる。人間はもっと泥臭い。

愛は普段使いのプチプラグッズ。壊れることもある。肝に銘じよう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!