作者の気持ち原理主義に疲れたら

小説や音楽や漫画、映画について、あたかも、作者が伝えたい絶対的な正解の「意味」があり、その正解を言い当てることが鑑賞者の唯一の存在意義であるかのような風潮は根強い。

かつてデリダが批判したような書き手中心主義は、それでも根強く、「作者の気持ち原理主義」とでも呼びたくなるような様相を見せている。

大抵、その正解とやらはありきがりな一般論だったりする。「実はこの作品は戦争の悲惨さを伝えている」とか「いじめ問題を指摘している」とか「管理社会への警鐘を鳴らしている」とか、そういうやつだ。

ありきたりな一般論だけでは退屈だから、エンタメという化粧をほどこなければ、人口に膾炙しない。作者の気持ち原理主義には、そのような前提が据えられているような気がする。

この構図が本当に正しいのだとすれば、作者の気持ちを当てたところで、得られるのは総じて誰もが知る一般論なのだから、その営みは、あらかじめ知っている結論に辿り着くための複雑なプロセスを楽しむゲームに過ぎないということになる。

では、デリダが言うような読み手中心主義を徹底し、読み手の自由な解釈を推奨するべきなのだろうか。それはそれで、結局、自分の思想を投影するだけの結果に陥ることが多い。まるで作品は、風景画家にとっての富士山のように、自分をアピールするための媒体に過ぎないかのようだ。

作品そのものは、絶対に到達し得ない物自体(カント的な意味で)だ。それは間違いない。だからといって、物自体が全く存在し得ないわけでもない。物自体から僕たちの感性へ働きかけるなんらかの素材があり、それを自分の解釈で捻じ曲げているわけだ。

読み手と書き手が半分ずつを担っていると、どこかの作家が言っていたが、その通りだと思う。

ただ僕は、読み手中心主義だろうが、書き手中心主義だろうが、いずれにせよ「なんらかの考察に到達することが正義」という前提が置かれていることに違和感がある。

要するに、ボケっと頭を空っぽにしてエンタメを消費するのは、「愚かな大衆」と見做されているわけだ。

昔友達が「エヴァンゲリオン以降、物語は難解であることが正義であるかのような流れができた」と嘆いていたが、僕も同意する。別に、愚かな大衆になったっていいじゃないか。

なんてことを『三体』の3部を読みながら考える今日。この作品は空想科学読本に社会学の視点を付け加えたような思考実験として面白過ぎて、ページを捲る手が止まらない。ホッブズ的な価値観と、進歩主義的な価値観(中世と宗教を否定する価値観)が見え隠れするのが気になるものの、ほとんどの場面では楽しく読める(羅輯がルーク・スカイウォーカーみたいな伝説の武人扱いされているのには笑った)。

うん。まぁ結局、好きなように読めばいいわ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!