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イカれた社会で議論する方法【雑記】

最近、この社会がイカれていることを、多くの人が納得し始めているような気がする。

10年前20年前はそうではなかった。「変えられるのは自分だけ」「社会を責めてもなにもかわらない」という自己責任論は、いまよりももっと強力に人々を縛り付けていたように思う。

もちろん、自己責任論にも一分の理があると認めることは、僕もやぶさかではない。なにか状況を変えたければ、アクションを起こすしかない。そのことは間違いないのだ。ただしそれは、誰かが誰かに手を差し伸べようとするのを阻止する理由にはならないし、社会を変えない理由にもならない。実際は、そうした理由として機能してしまったわけで、いまは自己責任論が行き過ぎてしまった分の揺り戻しが来ている状況にあるのだろう。

僕はこの揺り戻しを思いっきり加速させてみたい。

社会がイカれていると感じる人は大勢いても、「なにがどうイカれているのか?」についての合意はいまだ得られていない。思い描く解決策についても言わずもがなである。

原因は問題の根本にある誤解であると、僕は感じている。それは「人間がどういう生き物なのか?」に関する理論である。社会一般に流通する人間観は、明らかに観察される事態とは食い違っている。しかし人は事態よりも理論を優先するのが常であり、事態の方は「理論に外れた些細な例外」として考えられ(そもそも、そのことについて考えることがあれば、の話だが)見向きもされていない。だから議論は宙に浮いて混乱しているのだ。

アンチワーク哲学は、事態に基づいて理論をつくりなおすべきだと主張する。そして、そのために事態をより説得力のある形で描写する言語をつくりなおす必要があると主張する。「労働」「政治活動」「経済活動」「貢献欲」「力への意志」などなど。そして、アンチワーク哲学の理論をもってすれば人間と社会を動かすメカニズムをこれまでよりも説得力のある形で描写できるし、その問題点を解決する方法も明確になると主張する。

しかしアンチワーク哲学はこれまでの社会に通底してきた理論をことごとく否定していくため、感情的な反発を招くことが予想されるし、実際に招いている。これはやむをえない事態である。もし彼らが自分自身の手でアンチワーク哲学を構築したと感じていたなら、彼は間違いなくアンチワーク哲学の信奉者になっていただろう。しかし彼は心のガラスケースにしまいこんだお気に入りの理論を、僕のような得体のしれない人間から押し付けられた理論と取り換えようとは思わないはずだ。

そして、この事態すら、主体的意思決定を重視するアンチワーク哲学の理論を支持してしまう。僕はアンチワーク哲学に関して考えすぎて、何を言われても反論できるだけではなく、何を言われてもアンチワーク哲学に我田引水する状況に陥ってしまった。それは自分が正しいからなのか、自己正当化が暴走しているからなのかはわからない。後者の感が全くないわけではないにせよ、前者であるような気がしている。ただしこんなことをしていると、議論を巻き起こすのではなく、無視されてしまうのだ。議論とは、要するに戦いなのだ。論破する隙を見つけたときに論破しないでいることはむずかしいわけだが、隙が見つからないならそもそも戦おうとはしない。やたらと頑丈な城なら、そもそも攻めようとは思わない。

だからアンチワーク哲学を社会に普及させるには、ある程度の隙も必要なんじゃないかと感じている。一部の隙もない理論にはなんの魅力もないのだから。

困った困った。一生ディベートしてても仕方ないのである。

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