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一を聞いて十を聞き返す

世間では「一を聞いて十を知る」が良いこととされているらしいが、僕はこの風潮に異を唱えたい。

なぜか?

まず、この言葉は3つの意味で捉えることができる。それぞれのパターンを僕なりに分析し、批判を加えてみたい。


1.論理的思考に関する用法

「あるところに山田太郎さんがいました」という語り出しを聞いて「山田太郎さんは日本人で、男性なのだろう」という論理的に至極真っ当な推論を展開する能力が高ければ、一聞十知(めんどくさいので省略。「いちぶんじっち」と読もう)の状態に近づくとされる(もちろんこれは推測の域を出ないが、そもそも一聞十知とは多少の推測を避けられないのでやむを得ない)。

これはまぁいいとしよう。こういう推測を過信するのは良くないとしても、論理的な思考ができないよりは、できた方がいいことは間違いない。

さて、問題は残りの2つ目と3つ目である。


2.解釈労働に関する用法

次は2つ目を見てみよう。それは、解釈に関する話題である。

例えば真冬のかカフェでオッサンが「コーヒー」とぶっきらぼうに注文したとして、一聞十知な店員は「ホットコーヒーのレギュラーサイズですね、かしこまりました」と即座に応答する。その店員は、オッサンの太々しい態度という「一」の情報から、「ホットでよろしいですか?」などと質問すれば「このクソ寒いのにアイスを飲むわけがないだろ!」などという不愉快な叱責を食らうであろうことや、何も確認せずにホットコーヒーを提供して万が一アイスだった場合「なぜ確認しなかったんだ?」というこれまた不愉快な叱責を食らうであろうこと(すなわち「九」の情報)を理解する。

接客業をやっていると、この手の解釈労働が常に求められる(機嫌の悪い上司や法人のクライアントを相手にする場合も同様である)。オッサンは、この手の解釈労働が滞りなく行われることに対して満足するでもなく、当然の出来事であるかのようにコーヒーを受け取り、タバコの灰で汚らしくテーブルを汚した後、お店を去っていく。オッサンが何かのリアクションを示すのは、「ホットですか? アイスですか?」などと質問されて機嫌を損ねた場合だけである。

このことから、質問されることは不愉快な出来事だと捉えられてことがわかる。特に、権力関係が下の者から、上の者への質問は、可能な限り避けるべきだと考えられている。

もしそうだとするなら、権力者サイドの方は具体的な指示を下すのが筋なのだが、そうではなく、雑な指示を出して相手が思い通りに動かなかった場合にだけキレるという挙動を繰り返すオッサンの方が多い。それを繰り返せば、相手はいつしか「オッサンがこう言うときは、こうすれば怒られないな‥」と理解していく。そうして「やはり一聞十知であることが大事だ‥」などとオッサンは宣う。

つまり、2つ目の意味の一聞十知は、権力者側の怠慢を無理やり他者にカバーさせる権力構造を正当化する言説として機能している。

もちろん、これは権力関係がなければ成り立たない。例えば僕の家に友達が遊びに来ていて友達が「コーヒー」などとぶっきらぼうに指示してきたのなら「は? 俺はコーヒーちゃうぞ?」と返事するのが一般的な感覚だろう。それでもグッと堪えて「アイス? ホット?」と聞き返したとして「このクソ寒いのにアイスなんか飲むわけないやろ!」と言われたのなら、友達にホットコーヒーをぶっかけて家から追い出そうとするのが常識的な判断である。

もちろん、そんな友達は僕にはいない。それは間違いなく友達とは呼べない人間だ。


3.空気を読ませる用法

さて、3つ目の一聞十知の話題に移ろう。これも権力にまつわる用法なのだが、その中でもいわゆる「空気を読む」という奴である。

例えば上司が明らかに定時内では達成不可能なノルマを命じてきたとしよう。同時に、働き方改革で19時までにタイムカードを切れという命令が出ていたとしよう。

このとき、一聞十知の者なら、タイムカードを切ってからサービス残業を開始することになる。あるいは自爆営業を始める。

しかし、上司は「自爆営業しろ」とか「サービス残業をしろ」などと命令することは避けたい。なぜなら、そのような命令は良くないことであると世間一般では考えられているからだ。とはいえ、部門の予算を達成するためには、サービス残業や自爆営業が必要である。ならば、一聞十知の部下たちに「なんとしても達成しろ」と一言伝え、あとは空気を読ませる。

先述の通り、質問することは失礼なことだとされている(世の中に行き交っている質問の大半は、権力が上の者から下の者へと向けられた叱責を粉飾したものである。ならば、質問が逆流するのは権力者にとって不愉快なのだ)。そのことを理解している一聞十知な部下は、「え?これ達成できませんけど、とりあえず定時なので帰っていいですか?」などと質問することはない。

もちろんこれも権力構造に依存したコミュニケーションである。権力関係にない者同士なら、「いや、それは無理だ」とか「だったら、俺は降りる」といったコミュニケーションが当然の如く発生するだろう。


さて、1は差し置いても、2と3の用法はどちらも「命令することなく従わせること」を理想化した言説である。

用心すべき点は、どちらもほとんど命令なしで執り行われることだろう。命令や権力とは、基本的に良くないものとして理解されている。つまり、現代の権力は、権力の持つ「人を命令に従わせる傍若無人な振る舞いである」という不名誉さを引き受けることなく、権力の果実を受け取ろうとしている。一聞十知とは、欲張りな権力者の願望に過ぎないのだ。

では、権力者ではない人たちは、この不愉快さからどのように逃れればいいのだろうか?

現代の権力が権力として機能しているのは、ベーシックインカムが実現していないからであると、僕が提唱するアンチワーク哲学は常々指摘してきた。ベーシックインカムさえあれば、不愉快なオッサンを相手に空気を読む必要はなくなる(そして、そうなれば労働は不愉快であることをやめ、労働が労働でなくなっていく)。

残念ながら、当面ベーシックインカムが実現しそうな見込みはない。ならば、現場レベルで不愉快さから逃れなければならない。

ではどうするか? 真っ先に思いつくのは「ホットコーヒーレギュラーですね?」と即座に反応したカフェ店員のように、権力者の歯車として生きることである。彼はきっと心を殺してサービス残業をして、ときには自爆営業も辞さない。それが社会人としての使命であると理解し、取り組むだろう。

しかし、そのような社会人マインドをインストールすることに抵抗がある僕のような人間ならどうするか?

答えは1つ。一を聞いて十を聞き返すのである。

「アイスですか?ホットですか?」「このノルマは無理ですよ?」「それってつまりサービス残業しろってことですか?」「自爆営業しろってことですか?」などなど。

質問に質問を返すことは、権力構造を跳ね除けてフラットな人間関係を構築するためのとっかかりになる。質問する権利があることは、対等な人間関係において欠かせない。権力者側も質問には嫌な顔をするだろうが、質問を拒否することはできない。それを繰り返しているうちに対等な議論のテーブルにつくことが可能になる。

それでも「この寒いのにアイスを頼む奴なんかおらんやろ」と言われれば「いやいますよ!」と返していく。問答を繰り返していけば相手は「俺に口答えするな」といった言葉しか発することができなくなり、いよいよ彼は権力者としての正体を表す。そして、実際のところ、彼の権力にはなんの正当性もないことが明らかになるだろう。

また、この姿勢は、知識や思考力という意味でも得られるものは大きい。疑問が思い浮かぶのは理解していない証拠だが、疑問が思い浮かばないのは何を理解していないのかすら理解していない証拠だ。一の情報から十の疑問点を思い浮かべて追求することから学べるものは多い。

そんなわけで、僕はこれから一を聞いて十を聞き返す男になることを決意した。質問攻めにするかもしれないが、皆様お手柔らかに。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!