性悪説について思うこと【アンチワーク哲学】
僕は基本的に人を信頼しきって生きているが、裏切られたと感じたことはない。それに、人はたいてい僕の期待に応えてくれる気がしている。その結果、僕の考えは一般的に性善説だと呼ばれるものに近いと思う。ベーシックインカムを訴えるのも、僕が性善説的な発想を抱いているからだろう。
しかし、世の中には性悪説を信じ、人をジロジロと値踏みし、簡単に信用しない人もいる。人間なんて厳しく監視しなければ怠け、裏切り、利己的に振る舞い、悪さをしようとするだろうと、彼は考える。
そして、常に鍵をかけ、銃口を突きつけ、罰則をちらつかせ、相手の行動を抑止するシステムを好む傾向にある。人の善意を信頼してしまったが最後、即座に秩序は崩壊し、大混乱に陥るだろう、というわけだ。
僕は、そういう考えが不思議でならない。なぜなら、もしそのような考えを採用するのであれば、僕は道を歩こうとは思わないからだ。
顔も見たことのないトラックドライバーが、ほんの少しよそ見をしていたり、居眠りしていたり、酒を飲んでいたり、自殺願望があったりするだけで、僕は死ぬのだ。これはさほど突拍子もない発想だとは思えない。十分にあり得そうな話である。道行く人々はトラックドライバーに文字通り命を預けているわけだが、誰もかれもが涼しい顔で歩いている。いつトラックが突っ込んできてもいいように左右をきょろきょろ伺っているわけではないのだ。
「法律によって抑止されているから大丈夫」と考えるのは馬鹿げている。トラックドライバーの大半は刑務所で労働する囚人よりも遥かに長時間の労働に身を捧げている。ほんの少しブレーキを踏むタイミングをずらすだけで、簡単に土日祝休みで残業ナシ、おまけに寮・食事付きのホワイト企業に就職することが可能なのだ。わざわざ履歴書を準備して、スーツを着込んで、面接で美辞麗句を並べなくてもいい。
「自由に外を出歩けないというリスクを受け入れられる人は少ないから大丈夫だ!」といった反論が起こる可能性もあるだろう。だが、その反論をあなたがこれまで一度も考えたことがなかったのと同じように、トラックドライバーは「道行く人をひいたら刑務所に入ることになるけど、もしかしたらそっちの方が楽なんじゃないか?」などと考えたことはない。彼は自分のメリットのために人を殺そうという発想を、そもそも抱いたことはないのだ。
人を殺さないように、よそ見せず、飲酒せずに運転しよう。こんなことは誰に教えてもらうわけでもなく、トラックドライバーは勝手に実践する。トラックドライバーに限らず、自家用車のドライバーたちも同様だ。だからこそ、日本には8000万台ちかい車が存在するにもかかわらず、交通事故は1日に1600件ほどしか起きていないのだ。
これは偉業である。人間が信頼に値しないと考えるのであれば、間違いなく偉業である。
偉業はほかにもある。コンビニのおにぎりに鼻くそが混入していないことや、セキュリティ意識ゼロのドラッグストアやスーパーから万引きをする人やセルフレジをちょろまかそうとする人がほとんどいないこと。バイキングのごちそうがタッパーに詰め込まれ放題になっていないこと。セルフサービスの薬味を全部持って帰る人がいないこと。こうした達成は、あまりにも当たり前のものとしてみなされている。
当然、これらにすべて対策を施そうとするならば、人口の大半を警備員に仕立て上げなければならないだろう。しかし、そうなると次は警備員を監視する必要も生まれてくる。警備員も薄給かつ長時間労働の仕事の代表例だ。つまり、彼が刑務所に気軽に就職しようとする可能性をなくさなければならない。なら、刑務所を厳罰化するしかない。だが、刑務所の厳罰を執行する刑務官はどうすればいい? 全員死刑にすればいい? なら、死刑を執行する人々がまじめに仕事をする保証はどこにある?
・・・と、考え出せばキリがないのである。だから現実的には「さすがに警備員は裏切らないやろ」とか「さすがにここはみんなマナーを守るやろ」といった妥協点を置かざるを得ないのだ。
僕が言いたいことは、「人は信頼できない」という性悪説が多くの人々に受け入れられている割に、この社会には妥協点が多すぎるということだ。現実的にこの社会は他人を無条件に信頼することで成立しているにもかかわらず、僕たちは法律や銃、刑務所の脅威によってこの社会が成り立っていると考えている。
僕はこういう態度を中二病だと考える。無意味に斜に構えた態度であり、その態度は現実と乖離していると考えるからだ。
孔子は法律によって社会に安定をもたらそうとする考えを否定し、礼を重視した。そして、法律には抜け穴があり、それをずる賢く狙おうとする輩が常に現れることを見抜いていた。
ルールや法律には、破りたくなる衝動を引き起こす力がある。あなたがたったいま、僕の理論を批判する方法について考えを巡らせているように、人には障害を目の前にしたとき、その枠組みを知的に攻略する方法を考えてしまう習性があるのだ(孔子はそのことを理解していたが、その意味を現代人である僕たちは理解していない。僕たちは孔子を単なる年功序列の権化としかみなしていのだから)。
これは僕が言う「権力への意志」が法律の抜け穴探しに向けられている状況なのだ。法律がなくなったなら、法律の抜け穴を探して金持ちをさらに金持ちにするコンサルや税理士、社労士たちはやることがなくなる。なら、彼らの衝動は3Dプリンターで家をつくったり、効率的な水耕栽培システムをつくったりするかもしれない。もちろんスプラトゥーンに向かうかもしれないが、法律の抜け穴探しに向かうよりはマシだろう。
少し脱線気味だが、元に戻そう。僕の発想は単純だ。「どうせ疑いだしたらきりないんだから、もう全員信頼すればよくね?」である。先述の通り疑うことにはコストがかかる。そのコストを支払うくらいなら、たまに裏切られるくらいのコストを払う方がマシだろう。
セルフレジが世に浸透し始めのころ、左右の重さを判定して事あるごとにエラー通知を鳴らしていたことを覚えているだろうか? あのバカみたいな万引き対策は膨大なストレスを引き起こし、いつしか消えていった。「もうちょっとくらい万引きされてもいいから、こんな対策はやめよう」と小売業界は判断したのだ。
それを突き詰めればいい。法律も、刑務所も、警察も・・・そして行き着く先は国家も、金もそうである。もう、信頼しちゃえばよくない?
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!