人間と人間が暮らす家庭
既婚者仲間から「家計の管理ってどうしてる? お小遣い制?」と尋ねられることがよくある。僕は家計を管理するという発想がそもそもない。
妻は専業主婦なので収入がなく、僕は会社員なので銀行に毎月幾らかのお金が振り込まれる。家賃や光熱費等の生活費の大半は口座から勝手に引き落とされるし、妻は僕名義のカードで勝手に買い物する。それでも現金が必要なときもあるから、僕は妻の口座の底がついたら50万くらいを一気に振り込む。もちろん僕は僕で好きなように買い物をする。
誰がいつどれくらい金を使っているかなんて、いちいち把握していない。いま銀行の残高がいくらあるのかもわからないし、毎月のカードの支払いがいくらなのかもいちいちチェックしない。2ヶ月に1回くらいATMで現金を下ろすことがあるので、そのときに「思ったより多いな」とか「思ったより少ないな」となる程度だ。今のところ、何も困らない。
(もしかしたら将来、子どもの学費が払えずに困るのかもしれない。だが僕は、子どもが大学に行きたいと言い始めたときに考えればいいと思っている。)
3万円のお小遣いでたまに息抜きをしながら家族のためにせっせと勤労に励む男性と、家事と育児を一手に引き受けて家計を管理する女性。そういう「幸せのテンプレート」をベースに自分たちの暮らしを設計するのが、一般的なのだと思う。
しかし僕たちはそうしなかった。別にそうする理由がなかったからだ。僕たちにとって一番合った方法を探った結果こうなった。
他にも、家事の分担なんかも既婚者にとって興味深いトピックだが、僕たちの家庭は少し常識はずれなところがある。
平日は、掃除機をかけたり洗濯したり料理したりするのはだいたい妻で、僕の役割はゴミの管理と皿洗いを含めたキッチンの整頓程度だ。だが、土日になれば僕はトイレ掃除やリビングやキッチンの拭き掃除、料理を担当しつつ、導線の変更といった整理整頓をしたり、小麦粉をこねてパンを焼いたりする。妻は手伝ってくれたり、手伝ってくれなかったりする。別に明文化しているわけではなく、自然とこうなった。
収入面は100%僕がカバーしているわけだから、一般的な感覚からすれば「家事は女にやらせるべき」となるのかもしれない。しかし僕は貢献度の割合を50:50にすることには微塵も興味がない。やらなければならないと感じる作業がそこにあって、たまたま僕がやっているだけ。それは仕事をして金を貰ってくるという営みも同様だ。
最近、『主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら』という本を読んだ。その中で、同居している女性2人のエピソードが紹介されていて、そこから導かれている教訓が僕に新たな視点をもたらしてくれた。
一方で‥
要するに、相手を1人の人間として扱うのか、伝統という舞台を演じるのかの違いだ。
僕たち夫婦のスタイルは、どちらかと言えば前者に近い。伝統を気にかけておらず、その場その場で全てを判断しているからだ。
ただ、最近は伝統が全てを支配しているというよりは、伝統を合理的な計算が下支えする論理構造の方が強力だと感じる。「男は金を稼ぐ代わりに、女は同等の家事サービスを提供(不足分はパート代で補う)すべき」みたいな発想で、貢献度比率を50:50にすることに躍起になるのだ。
伝統なり、貢献度の計算なり、そういうものにとらわれていれば「べき論」が出てくる。人間関係を破壊しようと思うなら「べき論」を振りかざす以上に効果的な方法はない。べき論は慎むべきだ。
相手に好奇心を示して、相手のニーズを把握して、やるべきことは何かを考える。伝統や貢献度計算を度外視して、人間として相手に接する。人間と人間が暮らす家庭で生きていこう。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!