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トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』を読む前に

結局のところ、本書の目的はたった一つしかない。市民が経済と歴史の知識を再び我が物にできるようにすることだ。

背表紙より

ピケティよ。素晴らしい熱意であることは認めよう。その熱意によって書かれた『資本とイデオロギー』は素晴らしい本であると認めよう。

だが、市民はその熱意を受け取る準備があるだろうか?

この本を、市民が読むだろうか?

少なくとも、ティッシュ箱よりは太い。1000ページ以上。ティッシュは1ケースで150枚なので、1ページ読むたびに鼻を噛んだとすれば、ティッシュ約7ケース分を消費することになる。
重さはぴったり1200グラム。現代の医療をもってすれば、この体重で生まれた赤ちゃんも生きながらえることができるらしい。

あまりにも分厚い。こんな本を最後まで読み切る人は、恐らくほとんどいないだろう。

とは言っても、最近は「全部読まなくてもいい」「気になる箇所だけ読めばいい」という風潮が蔓延している。スターバックスのカップとMacBook Airと共に記念撮影し、あとはパラパラと流し読みして「読了!」とX(旧Twitter)にアップすればそれで満足する人も多いはずだ。

※その件についてはこちらでも書いた。

しかし残念ながらピケティはそのような一般的市民の振る舞いをも封殺しようとしてくる。

せっかちな読者は、最終章と結論をいきなり読みたくなるかもしれない。それを止めるわけにもいかないが、飛ばし読みでもいいから第Ⅰ部から第Ⅳ部に目を通さないかぎり、各種の要素がどこから出てきたのか理解するのは難しいですぞ、と警告はしておこう。また第Ⅰ部と第Ⅱ部があまりに昔の話で自分たちには関係ないと考え、第Ⅲ部や第Ⅳ部だけに注目したがる読者もいるだろう。各部や章の冒頭には十分なおさらいや参考資料をつけて、いろいろな読み方ができるようにしてみたつもりだ。だから読者のそれぞれが自分なりの道筋を見つけてくれてかまわない。とはいえ、最も論理的な順番は、本書で示した章の順番通りに読むことではある。

p50〜51

一応、流し読みは許可してくれている。しかし、これを「釘を刺された」と解釈せずにいることは難しい。この宣告を受けて堂々と流し読みをすることができるのは「早く帰れよ〜」と上司に言われるがまま定時退社できるような人物だけだろう。

となると、一般的な感覚の持ち主であれば、ピケティの新刊などまるで存在していないかのような顔をして生きていくことになるだろう。間違っても商談の場で「いやぁ、最近ピケティの邦訳が出ましたが、読まれましたかねぇ?」などとアイスブレイクを始めるビジネスマンもいないだろうし、Tinderのプロフィールに「好きな本:資本とイデオロギー」と書いてピケティ好き女子にアピールしようとする男もいまい。

しかし、この展開は明らかにピケティの思惑と反する。ピケティは経済と歴史の知識を市民の手に取り戻し、議論を活性化させたいのだ。初デートの観覧車の中で「格差レジームと所有権レジームってどんな風に関連してると思う?」と甘い吐息で囁き合うような社会を渇望しているのだ。

ならば、ちょっと今回は気合を入れて書評を書いてみようと思っている。「うわ、読みてぇ」と思えるような書評だ。まだ、「はじめに」しか読み終えていないわけなのだが、それだけの熱量を注ぐ価値があるような気がしてならない。

もちろん、それで実際に読む人は少ないだろう。だが、アイスブレイクを持ちかけられても、あたかも一言一句読み通したかのようなわけ知り顔で応答できるくらいの知識は得られるような書評にしてみたい。

まぁともかくまずは読もう。きっとこの本を読み終えたら、僕と観覧車に乗りたい女子が大挙して押し寄せる。ぜひおいで。甘い吐息で格差レジームについて語ってあげるよ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!