努力を見せないところを見せたい

Hey!Say!JUMPの山田涼介は、「裏の努力は、お客さんに見せるものじゃない」という哲学を持っている。しかし、彼が努力家であることを知らないファンはいない。

山田に限らずファンというものは、好きな人が謙遜している姿が好きなのだ。努力を見せびらかすことはなく「自分なんてまだまだ」と言っている姿をみて、「いやいや、あなたは努力家なのに、ご謙遜を!!」と褒めることが楽しいのだ。

山田が勘違いしていることがひとつある。それは、努力の過程を知った方が、お客さんはステージを楽しめるということだ。

全く同じお寿司でも、「30年の修行を経て生まれた」と言われた方が美味しく感じるし、全く同じラーメンでも「仕込みに48時間かけた」と言われた方が美味しく感じる。化学的に分析すれば何も変わらなくとしても、広告コピーによって努力の過程という意味が付与されれば、実際に人は価値を感じる。

同じように、全く同じステージを披露するとしても、努力家エピソードをあらかじめ知っているかどうかで、そのステージの満足度は異なる。

だからといって、大っぴらに努力をひけらかされると醒める。だから、山田のように謙遜をしながらも、ちゃっかりと努力家エピソードを発信していることこそが、エンターテイナーとして最も理想的な姿なのかもしれない。

逆に言えばどれだけいいステージを披露したとしても、努力家エピソードがなければ全く評価されないということも十分にあり得る。人の評価なんて所詮曖昧で、定量的な尺度など存在しない以上、思い入れや思い込みは最大の判断材料だ。

ならば、ジャニーズに限らず俗世に生きる僕たちにとっても、努力をアピールしていると悟られることなくアピールすることは重要なのかもしれない。

ではどうすればいいのか? それは僕にはわからない。山田の努力が知られたのは、恐らく売れた後だろうから、やっぱり結果がモノを言うのかもしれない。敗北者の努力になど、誰も興味を持たないのだから。

ならば結果を出すべきなのだろうか? 結果というのも、非常に曖昧で、要は人に認められることを意味する。人に認められることにつながらない努力は、無駄になるのだろうか。

わからない。結局のところ、人から何かを評価されてメイクマネーすることを目的にしなければ、努力がどう評価されようがどうでもいいのだ。努力を努力と思わないくらいにナチュラルにやって、それを評価されようがされまいがどうでもいいと感じる。その境地に辿り着くといいのかもしれない。

努力。不思議な幻想に包まれている言葉だね、本当に。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!