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こんな死に方は嫌だ【雑記】

自分の死の脚本家も、演出家も、自分でありたい。殺菌された病院のベッドで死ぬのも、温かい布団の上で家族に看取られながら死ぬのも、ぜんぶつまらない。

死は人生で一回限りなのだ。30年なのか、50年なのか、100年なのかはわからないが、長い時間をかけた前フリの果てにあるオチだ。1文字1文字に魂を込めた遺書を書いて、服装から場所、時間帯、道具、死因のすべてにおいて、ディティールにまでこだわり抜いた最高のショーに仕上げたい。

吉川英治版の三国志を読んでいたとき、しょっちゅう「憤死」という言葉が出てきて、中学生だった僕はカルチャーショックを受けていた。吉川英治は、なんの説明もなくコンビニ感覚で「憤死した」などと書いていた。「人って憤ったら死ぬもんなんだなぁ」と純粋だった僕は納得していたのだけれど、よく考えれば意味不明だ。今にして思うと、「抗議の意味を込めて自殺した」的なことだったんだろうか?それにしても、たかだかちょっとした抗議のためだけに死ぬのも馬鹿らしい。

三国志で言えば「死せる孔明生ける仲達を走らす」なんて言葉もあるが、孔明は仲達を走らせた程度で満足したのだろうか? 僕なら満足しないだろう。もっと芸術的で、革命的な仕事を成し遂げたい。

そういう意味では、ゴールドロジャーの死はかっこよかった。時代を引っ掻き回して死ぬのは美しい。三島由紀夫もよかった。三島由紀夫の思想はよく知らないし、たぶん右翼っぽいから僕とは気が合わないと思うけれど、死に方だけはかっこいいと思った。切腹いいよね。

明確な主張を残して死ぬのもいいけど、謎をたっぷり残して死ぬのもいい。『君たちはどう生きるか?』はきっと宮崎駿の遺書みたいなものだろうけど、謎だらけだった。たぶん本人にとっても謎だろう。あぁいうのも悪くない。自分でもわからないような不可解なメッセージを残して死ぬのだ。うん。それもいい。映画はつまらなかったけどね。

どんな死に方にしようか。僕はたまに気まぐれに遺書を書くが、なかなか「これだ」という遺書を書けない。太宰治は遺書を書くのが趣味だったらしいが、いい遺書を書いたから自殺したんだろうか?

僕も最高の遺書が書けたなら自殺しようと思うけれど、きっとそのときはしばらく訪れそうもない。それでも、少しずつ構想して、イメトレしておこう。「いつかそのうち」と思っていたら、死はあっという間に訪れるものだ。

死ぬときにどんな後悔をしても構わないけれど、「こんな死に方は嫌だなぁ」と後悔しながら死ぬのだけは嫌だなぁ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!