人間は料理を食べない。文脈を食べる。

食事は単なる栄養補給でもないし、糖分・塩分・脂肪分を貪り食うための煩悩的な行為でもない。

文化というゲームの文脈を味わっているわけだ。

なぜオムライスの中身がケチャップライスなのか、考えたことがあるだろうか?

別にマヨネーズでも、ポン酢でも、醤油でも、塩胡椒でもいいはずだ。それなのに、大抵の場合ケチャップライスになる。

それは文脈的に「もっともらしい」から、料理を作る人がその選択をしているのだ。

稀に、マヨネーズを使う人もいるだろう。文脈に+1をする行為は許容範囲だったりする。しかし、+2をしたり、文脈の外側からやってきた食べ物を、人は美味しいとは感じない。オムライスの中身の味付けをマヨネーズにした上、食材にパイナップルを使用すればきっと嫌悪感を覚えるはずだ。あるいは、オムライスを全く知らない部族に提供すれば、きっと警戒するだろう。

+1の実例をあげよう。ピザが日本に初めてやってきた時は、「西洋風お好み焼き」と紹介されたらしい。つまり、お好み焼きに+1したのだ。わざわざそんなことをするのは、ピザという得体の知れない食べ物を、文脈の上に乗せたかったのだろう。

+2の実例もある。少し前に妻は茶碗蒸しにうどんとご飯を入れるという料理を出してきた。正直「なにこれ?」と僕は思った。妻の実家では茶碗蒸しにうどんを入れるという+1の文化が根付いていて、それが普遍的なものと理解されているからこそ、そこにご飯という+1があってもさほど違和感がなかったらしい。

しかし僕はうどんin茶碗蒸しに馴染みがない。+1だけで抑えられれば「おっちょっと変わった料理やん」で許容するが、+2になれば嫌悪感になる。

(僕はそのとき結局食べて美味しいと思った。そして、この仮説を思いついたのだ)

「仙台で牛タンを食べたい」みたいな発想が生まれるのも文脈の力だ。仙台に行く交通費を考えれば、地元で1番の牛タン屋さんに行けるだろうが、「牛タンと言えば仙台」という文脈の上で味わった方が美味しいのだ。

ミシュランガイドだって文脈だ。ミシュランの舌が優れているという保証はどこにもないが、なぜかブランドになる。

タピオカブームだって文脈だ。タピオカなんてずっと飲めたのだが、ブームなんだという文脈があるからこそ、思う存分楽しめる。

結局僕たちは「そういうものだ」「流行ってるんだ」「この土地の名物だ」という文脈を味わっている。実際にそれで満足できてしまう。「ブームなのだから美味しいに違いない」と思い込んで味わえば、実際に美味しくなる。栄養補給や味なんて二の次だ。

タピオカブームをバカにしていた中途半端なインテリも、月見バーガーをありがたがって食ったり、名古屋で味噌カツを食ったり、唐揚げ大賞受賞ののぼりをみて食ってみたりしたことはあるだろう。

あれも結局、「ブームを否定的にみて、関係ないものを味わう」という逆張り界隈の文脈に乗っかってるに過ぎない。

味という快楽だけを重視する功利主義を装っても、ホモ・ルーデンスである僕たちは、文化というゲームから降りられない。

中途半端なインテリは、こういう人間の不合理なところを見落としがちだよね。僕は何度でもこの名言を引用したい。

人間は合理的だと考えるのは、合理的ではない。(by 僕)

さて、今日はどんな文脈を味わおうか?

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!