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 賀川豊彦が気になって

 どこの書店であれ、ほとんどの棚を見ないと気が済まないたちである。先日、近所の大規模書店で宗教コーナーを流していたら、『日本キリスト教史における賀川豊彦 その思想と実践』(賀川豊彦記念松沢資料館編、新教出版社、2011年、以下『思想と実践』)という本が目に飛び込んできた。
 賀川については、当ブログの前々回「ある  ”  偉人 ”  の別の顔 賀川豊彦と部落問題」(以下『別の顔』)に書いたばかりである(文末参照)。
 くだんの本を手に取ると、大勢の研究者が執筆し、すでに発表したものを集めた論文集だった。こういった寄せ集めは、執筆者によって当たりはずれがある。はずれが多いと、買って損したなぁと後悔する。
 価格は4000円で、けっして安くはない。かなり迷ったが、賀川の全体像に関心があったので、思い切って購入した。
 正解だった。悩み多き青年時代、受洗、スラムでの活動、その経験を著した『死線を越えて』の大ブレイク、農民・労働運動とのかかわり、平和主義者から戦争協力者への転向、ハンセン病者の隔離を推進する救癩きゅうらい運動の責任者‥‥。サブタイトルにあるように、彼の思想と実践が詳述されていた。
『別の顔』でも触れたが、部落問題をテーマとする最近の英語論文で、賀川の著作が引用されたり、妻の評伝が刊行されたり、著者が講演で「偉人」と持ち上げたり、ここにきて  " スラムの聖人 "  が再評価されている。
 拙稿では賀川と部落問題については書いたが、『思想と実践』を通読し、それだけではないことを痛感した。
 そこでこの本をテキストとしながら、あらためて賀川の人間像に迫ってみたい。『思想と実践』の執筆陣の職業は、出版時のものである(&敬称略)。

 簡単に前半生をおさらいしておこう。1988年(明治21)に兵庫県神戸市で生れた賀川は、幼少時に両親を亡くし、預けられた徳島県の本家は破産してしまう。16歳で洗礼を受け、明治学院高等部神学予科、神戸神学校で学ぶも、十代後半に結核を発症し、蓄膿症の手術後に出血多量で死の淵をさまよう。21歳で一念発起し、神戸のスラム・新川しんかわに住み込み、路傍伝道を始める。3年弱のアメリカ留学を除き、30代半ばまでそこに住んだ。
    賀川の思想と実践を貫くのは、19世紀末に欧米で確立した優生学である。 "  優良な子孫  " を残すべく、"  不良な子孫  "  の出生の予防を目指す優生学は、各国で広まった。
 ナチ体制下では、遺伝的健康が証明できなければ結婚できなかった。障害者40万人に強制断種、30万人に「安楽死」が遂行された(『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』小野寺拓也・田野大輔、岩波ブックレット、2023年)
 日本では1948年に優生保護法が施行され、約8万4000人ものハンセン病患者、精神障害者らに対して、断種手術や人工妊娠中絶がおこなわれた(日弁連サイト)。優生学は、社会的弱者の排除と密接に結びついた学問であった。
 1909年(明治42)から神戸・新川に住み、キリスト教の伝道を始めた賀川は、その6年後に『貧民心理の研究』(警醒社)を出版する。『別の顔』でも述べたように、賀川は被差別部落民を、現在では学術的に完全に否定されている異人種起源説を採用し、出典を明記せずに犯罪率の高さを挙げ、<日本帝国中の犯罪種族><日本人中の退化種――また奴隷種、時代に遅れた太古民>と明言している。
 特定グループに対するこのようなレッテル貼りが問題であるのは、言うまでもない。

『思想と実践』の中で、日本近現代史の研究者の藤野豊は、『貧民心理の研究』の問題点について、次のように記述している。
<貧困問題の原因とその解決についての研究成果を記したこの書のなかで、賀川は、貧困の原因として、アルコール依存と「不幸なる結婚」をあげ、後者について「早婚、姦通、悪質者の婚姻、血族結婚、思慮なき結婚、その他貧民窟に多く見る肉慾の為めの交接」と具体的に事例をあげている。ここで、重視したいのは「悪質者の婚姻」である。
 賀川が「白痴、低能、精神病者の中で、既に結婚をして、盛んに下等人種を製造しつヽある」と述べているように、賀川の言う「悪質者」とは、まず、知的障害者・精神障害者を意味している>
 賀川の社会的弱者への視線は、冷たい。また、社会問題の原因を彼らに求めている。これは部落問題に関しても同じで、その意味で一貫性はある。
<白痴、低能、精神病者の中で‥‥盛んに下等人種を製造しつヽある>という書き方は、いかにも優生学的な発想ではないか。
 引用を続ける。
<さらに、「色情狂がアルコホールや梅毒患者の遺伝であることは云はずもがな」として、多くの貧民が「色情狂者」によって生み出されているとも述べ、アルコール依存症者や梅毒患者も「悪質者」に含めている。そして、これらの「悪質者」を一掃し、貧困問題を解決する方法として「人種改良」をあげるのである>
 果たして「色情狂者」は、遺伝によるものなのだろうか? アルコール依存・梅毒患者=「悪質者」という図式にも、賀川の人間観がよく出ている。
<では、「人種改良」とは何か。それは男性の輪精管を切断する断種である。「悪質者」に断種をおこない、子孫を断つという優生政策の実施、賀川はそれこそが貧困問題の有効な解決策と考えている。のち、賀川は「アルコール、黴毒などの知識的組織の欠陥した者」に対しては、「人種改良的立法」をも求めるに至る(『貧困を救ふ道』、学芸講演通信社、一九二六年)。賀川の貧困問題への認識の根底には明らかに優生思想があった>

  賀川が1937年に著した『女性賛美と母性崇拝』(東京慶文堂書店、全集7
巻所収)には、次の文章がある。
<恋愛の自由によって、低く落ちた人間の理想を高く引き上げねばならぬ。今日の変質、発狂、低能、白痴、犯罪性の人間性を雌雄淘汰に「よつて、除去し、優種を得る工夫をせねばならぬ>
 放埓な性交が劣種をつくりだすと説き、女性の純潔を強調している。世の中に害を及ぼしかねない「悪質者」は、なくしてしまえとばかりに、断種手術の旗振り役を務めていたのが、賀川だった。
 後に賀川は、ハンセン病患者の絶対隔離を進める、官製の救癩運動の最前線に立つのだが、その萌芽は二十代を過ごした神戸・新川時代にあったのだ。

 神戸・新川に移住してから10年後の1919年(大正8)、賀川は「貧民窟伝道満十年記念晩餐会」を神戸海運倶楽部で開催する。すでに地元の名士になっていたようである。
 同年に『貧民心理の研究』と同じ版元の警醒社から、『精神運動と社会運動』を刊行する。
 よほど部落問題に関心があったのだろう。賀川はこの中で、「兵庫県内特種部落の起原に就て」と題する章を設けている。<伝説分類表>には、祖先として<原始人><支那人><朝鮮人><乞食><名家><高貴の従者><汚穢物取扱者><特種民の増殖せるもの>などを挙げ、部落数や人口まで記している。伝説は、あくまでも伝説である。<原始人>を祖先に持つといえば、地球上の人間全員がそれに当てはまるではないか。
 また、<私にはまだ不可解の白皙人種の血統を発見したり、時によると黒人型の人間を発見するのは歴史的断定のみによる危険があると私は思ふのである>と述べ、異人種への注視を強調している。<|白皙<はくせき>人種>とは色が白い人種、つまり白人ということであろう。
 章の末尾でも、人種について述べている。
<私は伝説を離れて、アイヌ人の血が特種民の中にある様に思へてならない。白皙種の特種民は、多く智力が黒人型に似た特種民より勝れ、私の交際した処によると温柔で、親切で同情に富んで居る。然し之は生理的人類学の開拓を待つて論結することにしよう>
『貧民心理の研究』から10年を経てもなお、部落民=異人種起源説に固執していたことがわかる。
 当時の部落史研究は現在よりも貧弱で、異人種起源説をとった賀川ひとりに責任はない。ただ、彼の視線は、人種に優劣をつける差別主義の色合いが濃い。<白皙種の特種民>は<智力が黒人型に似た特種民より勝れ><温柔で、親切で同情に富んで居る>という記述がそれである。

 この論考を含む『精神運動と社会運動』と同じ時期に、『涙の二等分』が、福永書店から上梓された。
 冒頭に80行を超える長い詩が掲載されている。収められた『賀川豊彦全集20巻』(キリスト新聞社、1963年)の解説によると、当時の新川では養育費をもらって<不義の結果生れた嬰児>を育てる業者がいた。養育費だけ分捕って、餓死させる者もいたという。
 そのうちの一人が警察に捕まり、21歳の賀川が嬰児を引き取った。<お石>という名の被差別部落の女児である。
 賀川はその嬰児を、連日夜通し世話をしたが、そのうち反応がなくなった。なぜ、泣かない? 今度は世話をする私にも泣いてくれ。泣けないなら、泣かしてやろう。賀川は自分の涙を彼女の目になすりつけた。『涙の二等分』というタイトルは、ここからきている。実際にあったできごとらしい。
 詩の冒頭を、以下引用する。<お石>は<おいし>とも表記している。
 
 おいしが泣いて、
 目が覚めて、
 お襁褓むつを更へて、
 乳溶いて、
 椅子にもたれて、
 涙くる。
 男に飽いて、
 女になつて、
 お石を拾ふて
 今夜で三晩、
 夜昼なしに働いて、
 一時ひとときねると、
 おいしが起す。

 それでも、お母さんの、
 気になつて、
 寝床蹴立てゝ、 
 とんで出て、
 穢多の子抱いて、
 笑顔する。

 賀川の慣れない子育てを微笑ましく思うのは、読者の自由だ。私はこの詩に限らず、独りよがりで饒舌な賀川の文章が、苦手である(「笑顔する」などという日本語があるのだろうか)。
 それにしても<穢多の子抱いて、笑顔する>は酷い。なぜここで<穢多の子>と表記しなければならないのか。私には賀川が社会的弱者を利用して、己を浮かび上がらせようとしているようにしか思えない。主人公は、あくまでも自分なのである。

 賀川が神戸にいた期間に、社会主義者の荒畑寒村が新川を訪ねてきたことがあった。その時の様子を『寒村自伝』(板垣書店、1946年、岩波文庫、1975年)に書いている。ちなみに寒村は、賀川より一つ年上で、文中の「葺合ふきあい」は、新川を含む区の名称である。
<私はいろいろな集会で賀川君の演説をきき、その主宰する労働学校の課外講演を依頼され、また神戸市葺合の貧民窟の説教所をうたこともある。賀川君はうわさたがわずたしかに雄弁であったし、それに八幡製鉄所の煙突の数まで知っているほど恐ろしく博識で、あらゆる蘊蓄うんちくが傾けられるから聞いていると実に面白いが、頭の悪い私などはアトで一体何が語られたのだろうといつも思いまどったものだ>
 賀川は雄弁家ではあるが、その中身は疑問符が付くと書いているのは、寒村だけではない。さて、新川への訪問である。
<賀川君が住居をかまえて、馬島ドクトルの診療しんりょう事業とともに、キリスト教の教化に従っていた葺合の貧民窟は、案内役の賀川君がここはどうすればいと思うかと質問したのに対して、私は言下げんか焼却しょうきゃくする外はないと答えたほど実にひどい処であった。なるほど、この貧民窟に住んで宣教せんきょうに従っている賀川君を、世間の人が「葺合の聖人」と呼ぶにも故あるかなと思ったが、しかし「どうした」などと腫物はれものだらけの子供の頭をでる賀川君にも、「有難く思え、お前なんかの頭を撫でて下さるのは先生だけだぞ」という母親にも、真にたがいの心にかよう愛情や感謝の言葉の念は感ぜられなかった>
 賀川は社会事業や労働運動に対して理解を示したが、社会主義(者)に対しては、明らかに距離を置いた。
<日本に於けるキリスト運動に於て、最大の敵は唯物思想である。共産主義は唯物論唯物弁証法、唯物史観等の無神論的宇宙観を組織的に流布し、キリスト運動に真正面からぶつかつて来る>
 と記している(「キリスト運動日本教化思案」『火の柱』1947年9月号)。
 官製の救癩運動の先頭に立ったように、後半生は体制側の人でもあった。寒村とのソーシャルディスタンスは差し引いて読まなければならないが、最後の文章は、無視できない一文である。
 寒村の記述に関して、『思想と実践』で、元同志社大学教授の土肥昭夫が、賀川の立場を次のように指摘している。
<このエピソードはスラムにおける彼の人間関係を考える上で、一つのヒントを提供する。彼はキリスト教伝道、救貧活動、執筆活動をするうちに、おのずから自分を彼らと区別するのみならず、彼らより一段と高い所に立ち、彼らを見下ろすような視座に立ってしまった。明治学院時代に覚えた矛盾の対極としての「高慢」がこれを培養した。スラムの人たちは彼の言動の中にこの事を直感的に感じたのではなかろうか>
 賀川は10代後半の明治学院高等部時代、自分が高慢であることに悩みつづけた。
<豊彦は高慢なるか。果たして然るか。高慢ならん>
<豊彦は遂に高慢なり。矢張り豊彦は高慢なり>
 そうつづった日記が残っている。
 自分の欠点をわきまえていたからこそ、新しい世界で福音を説くべく、神戸のスラムに飛び込んだ。その行動力は、賞賛に値する。
 だが、高慢な性格は変わらなかった。スラムでの体験を、詩や小説で表現することにより、自己を美化・聖化することができた――。
 そう見るのは、穿ち過ぎだろうか(つづく)。<2023・7・31>

「ある " 偉人 " の別の顔 賀川豊彦と部落問題」https://note.com/kadooka/n/n6854548d20e1


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