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低評価の恐怖を考える

怯えている時に人間はおかしくなるのかもしれないな、と思っています。
この記事はとりとめのない考え事を書きながら考える記事です。私個人のもやもや解消記事なのでいろいろ前提が本文からは抜けています。

職場でちょっと様子のおかしい人がいて、Aさんとしましょう。
Aさんは今時珍しい意識高い系で、「毎月20冊はビジネス書を読んでる」みたいなこと言ってて(その是非については今回は置いておきます)、チーム共用Googleカレンダーは隙間なくぎっしり予定つめてて定時のあとや土日にもぎっしり「調査」「まとめ」などの業務予定的なものを入れています。
先日大きめのメンテがあった際の土曜夜の予定欄に「21:00~2:00 寝ない! 見守る!」みたいなこと書かれてたの見たときには「そう……」とだけ思いました。(なおその人はエンジニアではないのでなんらかの不具合があったとしても戦力になるわけではない)

まあまとめると、40手前のはずなのに、なんか新卒みたいな張り切り方をしているし自らブラックな働き方を率先しているしそにアピールが激しいです。俺はこんなに勉強して頑張ってるのに今時の若いやつは自分で勉強しない、ともよく言ってます。なお役職はなし。

で、この人、がんばるアピールも悪い意味ですごいんですけど(というかアピールしたいためだけにがんばってるんではと思ってる)、もっと「うわ」って思ってるのが、媚びがやばい。上司や外注への媚び方がやばい。

あの、ネズミ男が詐欺やるときのもちあげかた「イヨッ先生ッ」的なやつ。私も同じチームではあるんですが年齢が上だからかそっちの扱いをされており、専門職だからか呼ぶ際にいつも「先生」をつけてくる(やめてほしい)し、ちょっとしたページ修正などで「いやあ先生は本当にすばらしい、そんな知識ボクには一生つけられない、すごすぎますよぉ」ってマジで言ってくる。なお作業内容は文字を太字にしたとか色を変えたとかその程度です。バカにしてんのかと思いますよね? でも彼は本気で「そう言われると気分がよくなるだろうから言ってる」んですよ。すごいとは思ってないとは思う。

かと思うと、新卒や年下へのジャイアンっぷりもひどい。お前らは俺が育てた、育ててやってる的な言動、アニキ的な振る舞い(でも責任はとらない)、おいしそうな案件はやりかけでも取り上げるし、かと思えば興味なかったりおいしくなさそうだと放置もするし。あと個人的に気持ち悪って思ってるのが「下」扱いしてる相手の言動ではそこそこパブリックなミーティングでも一人称が「俺」になること。

なにが根源であの態度になるんだ? がんばりやさんの俺と、ネズミ男とジャイアン。この三つをつなげるものはなんだ?? と、業務中の暇なタイミングで答えを探し続けてました。自分が納得したいがためだけに。

で、ようやく「これか」と思ったので自分用に記録します。

とっかかりとしては「上」の立場への振る舞い方が、「なんか加害性のある無職高齢独身男性と二人っきりの部屋に取り残されてしまった女子大生みたいだな」と考えたことがきっかけでした。
そういうときって女子大生、男性へ全く興味も敬意も好意もなくてもめちゃくちゃ友好的に振る舞うし尊敬してるふりもするし愛想良くするじゃないですか。第三者が見てれば「あっ」てわかる感じに。
その感じにそっくりだったんですよ。
つまり、怯えている。ネズミ男は「利用するためにいい気分にさせる」「実は相手のことはどうでもいいと思っている」でおだてまくるわけですけど、そっちではなく「怯えている」のほうがしっくりくる。相手に加害性を感じているときの振る舞い。得る、奪うためのネズミ男と表面的には同じだけど、実情は真逆で、殴られないための振る舞い。

では「上」の人間のなにを暴力的と感じているのか?
で、他の人といろいろ話していて気づきました。
「低評価」です。
「低評価」に怯えているんです彼は。

低評価に怯えているからとにかく馬車馬のように働いているとアピールするし、毎月20冊以上のビジネス書を読むと言っているし、「上」の人間には「自分はあなたのことを高く高く高く評価している」が最大の降伏である(幸福ではなく降伏)と考えているし、「下」の人間には「俺が評価してやってる」ということこそが最大の喜びになるはずだと考えている。
言動のすべてにうすら寒さを感じるのは「評価」を前提にしているから。

高評価が欲しいというよりも「低評価されたくない」という怯えですあれは。

他者目線に振り回されるとただでさえおかしくなりがちなのに、そこに「恐怖」さえ感じてしまっていると、なるほどおかしくもならぁなという自分のハラオチがありました。

彼ほどでもないにせよ、誰でも「低評価されないための振る舞い」はすることがあるでしょう。やりたいからやるんじゃなくて、低評価されないためにやる、選ぶこと。

そしてやりたいからやる人が結局は一番評価されて、低評価されないためのふるまいでできているひとのことを人は評価しない

最近、英語の勉強をしています。
割と大人になってから数学や漢字や英語や歴史やってみたらおもしろかったという人が多いですよね。
それって「横並びにされたうえで評価される」ということから切り離されて向き合えるからなんでしょうね。評価されることって、暴力だから。運動も、「体育」は嫌いだけど体を動かす楽しさに大人になって気づいたって話、よく聞きますね。

とにかく「低評価をくらわない」「怒られない」「殴られない(この場合の殴るは概念的な意味の殴るです)」のための行動は、ほぼすべての場合においてろくなことにならない

じゃあどうしたらいいかっていうと「評価」をコントロールしようなんて思わないこと。結局自分にできることではないし、仮に評価をコントロールできたとして、それは自分がやりたいことではないからわだかまりは残る。評価に怯えるのをやめる。評価されることはもちろんなくならないし自分も評価はするけれど、それはたんなる結果なのでそこに怯えるのはやめる。

じゃあじゃあどうしたらいいかっていうと、判断基準を評価ではなくてそのものごと自体に向き合ってちゃんと選択して決めること、自分で決めること。本当に自分で判断して決めてやったなら、評価が低くなったって殴られたことが致命傷にはならないはず。そこの低評価は単なる改善要素のフィードバックでしかなくなるはず。
評価を目的にしちゃうと評価が得られなかったときに「完膚なきまでの大失敗」になってしまう。

結局の結局は「自分で考える」という一番しんどいやつに落ち着くんですが、でも結局、それしかないんだろうなあ。

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