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バニラアイスにカラーシュガーをかけて考えたこと

外部刺激で快楽を得ようとするとインフレしかないから、内部刺激で快楽を得られるようになるといい、という話を最近聞きました。

具体的にいうと、5000円の焼肉ランチで感動する。それはいいことです。でもその経験を超えようと思ったら次は7000円とか8000円とか、なんなら10000円のランチでないといけない、みたいなことです。

レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」にもそんなようなことが書かれてるらしくて(先日読書会で紹介された)、もちろん焼肉の話をしてるわけじゃなくて、激しい娯楽ではなくて風のそよぎや土のあたたかさみたいなことに喜びを感じられるようになりましょうとか、そういう話。
その後その読書会では「スマホじゃなくて自然に触れるっていうの、綺麗事じゃなくて本当にそのほうが得なんじゃないか」みたいな話になったりしました。

そのへんの点と点を、先日カレーとパフェを作る会で使いきれずにもらったカラーシュガーをエッセルのバニラアイスにかけたり食べたりしながら、なんかそういうことかもしれないなーと思ったりしてました。

私はけっこう、アフタヌーンティーとかオシャレパフェとか喫茶とか行くほうですけど、そういうところで得られる「めずらしくて手のこんだおいしいものを食べた」という感覚って、なんというか「体験的な味」で。そういう体験をした、という味。で、例えばその、体験的な味ではなく「うれしさ」を数値で80とするなら、自宅でコンビニのバニラアイスにカラーシュガーかけたときもやっぱり80、とはいかなくても70とか75くらいのスコアは出してる気がするんですよね。

ある部族を取材したある人が、お礼に素晴らしいコーヒーを奢りましょうと長老に申し出たら拒否された、というエピソードも思い出しました。
長老いわく、その飲み物は本当に素晴らしいものかもしれないが、私は二度と飲めないかもしれない。そうすると今後の人生でずっと「あの飲み物がまた飲めたらいいのに」と思い続けていくことになる、的なエピソードでした。

5000円の焼肉ランチとか、中央線のはての作り込まれた喫茶店で提供されるテラリウムみたいなパフェとか、そういう、得難い体験の反芻とそのインフレをこころのよすがにするのは悪くはないけど、スーパーで投げ売りされたりもしてるバニラアイスにカラーシュガーかけるといいよね、ということが自分の75点になるということを自覚していること。これはレイチェル・カーソンの言う「風にそよぐ葉や土の感触が喜びになる」という概念と多分近いんじゃないかなあという気がしています。

身の丈に合う娯楽で我慢しろとかそういう話じゃなくて、手の届く範囲と再現性のあるささいなもの、自分でコントロールして手を加えたものを、妥協としてでなく「よいもの」と思えるというか……

でもそういうのも中年になったから思えることかもしれないですね。若いうちは今知っているものよりもっとずっといいものがどこかにあるはずだと考えながらあれこれ冒険に出るのもいいものなのでしょう。

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