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四十路の恋愛問題。今さら、「恋とは何か、愛とは何か」

 いい歳をして、恋に落ちた。いい歳をして、と書いたが、私は現在43歳、ちなみに既婚者でもある。この歳で改めて恋をして、人はいくつになっても誰かに恋をするのだと身をもって知る。

 私は決して新しい出会いなどを求めてはいない。家事育児が十分忙しく、そのうえやりたいこともあって時間がいくらあっても足りないともがいていたくらいだった。恋などに割く時間もエネルギーも皆無なのに。ある日突然、足元が崩れ去って真っ逆さまに穴の底へと落っこちた。穴の底の世界は、魂が喜んでいるのになぜか、とてもとても苦しい心持がした。この苦しさはいったい何によるものか。

 あまりの苦しさに私は、この事態を友人Nに話す。Nも既婚者で私と同じ3人の子の母であり、家庭円満でありながら家の外に新しい恋人を持つ。Nは言う。

「彼との関係が幸せに満たされているからこそ、その幸せを家族にも循環できるているのよ。家庭が不和で、そこから目をそらして逃げ場のように外に恋愛を求めるのは私は違うと思う。出会い系アプリの既婚者はまずそういう人ばっかりよ。少なくても私はそういうエネルギーの人とは恋愛したくなくて、私と同じで家庭円満で、そういう楽しいエネルギーを循環させたいと思ってる人をずっと探してたの。その彼は初めて私と同じ考えの人で、何度か会ううちに私の気持ちがどんどん熱してめっちゃ好きになっていった。私はそうやって自分の目的に合った相手をアプリで探して、自分の求めている恋愛をしているんだけど、花壇ちゃんは出会いを求めていなかったのに日常生活の中で出会っちゃうなんて逆にすごいよね!」

 思わぬところを褒められ少々面食らったが、なるほど、「恋」への入り方も作法も、こんなにまで人によって様々なのだ、やはり人とは話してみるものだと私は思った。私はこれまでの人生で、上記のような突然ぼこっと穴に落っこちる式の恋しかしたことがなく、目的に合った相手を見つけておいてからその人を好きになるなんて発想すらなかった。いったい、そんなことができようか。

 いつもぼこっと落っこちる私にとって、目的を持った恋がとてもできそうにないのと同様に、ある人と結婚をしたからと言って、子どもたちが手を離れるまでのウン十年もの間、他の誰にも恋をしないなんてこともまた、はなからできそうにないことだった。夫婦は子育てのパートナーであり、そこが円滑に機能していれば、男女ともに一生、誰に恋をしても自由ではないかと思う。その点では、婚外恋愛は一切不可とする法律や社会常識の方を密かに疑っている。法律や社会の目によって規制されるものではなく、お互いに相手をむやみに傷つけない配慮やルール作りを夫婦ですればいいのではないか。

 婚外恋愛の是非については話がややこしくなるのでこれ以上は扱わない。今回は、この歳になって再びぼこっとやってしまった私が、「恋とは何か、愛とは何か」という10代から20代前半に苦悩した問と改めて向き合い、見えてきたことについて書き綴ってみたい。

 苦悩してたどり着いたことの一つは、「理由もわからずある人に無性に惹かれるという恋は、魂がしていることなので、抗うのが難しい」ということ。これはあくまで私の場合であり、友人Nやその他の人のことは知らない。私にとって、「恋」は「魂がしていること」だとほぼ直感的に思った。これは10代20代の頃の私が知らなかったことだ。その後の人生の様々な局面で獲得した、よりスピリチュアルな世界観などを総合して導き出された直感だった。

  非常に感覚的で抽象的な視座であることを恐れずに言うと、「魂」はその人の人生に、魂の成長にとって必要な出来事のみをもたらす。だから、突然訪れる恋というものは、必ずその人自身を成長させる機会であるはずだ。恋という体験を通してどのくらい成長できるか、あるいはあまりできないかは、その人の恋への向き合い方によると私は感じる。それは、例えば相手の成熟度などとは無関係である。私はかつて精神的にものすごく成熟した人と約4年間を共にしたが、私自身はその彼のあり方から多くを学び、成熟した優しさに包まれて安心を与えられはしても、大して成長はしなかった気がするのだ。代わりにその彼は、

「最高に成長できた4年間だった。ありがとう。」

という言葉を、涙にぬれたキラキラの笑顔とともに残し、去っていった。

 ところで「恋」というもの、喜怒哀楽よりは長く続くことが多いものの、喜怒哀楽と同じく「感情」である。私の胸を焦がし、吸う息の酸素を薄くして苦しめると同時に、生命としての絶対的な喜びを与える「恋」という感情は、感情であるがゆえに一時的なものである。一個の個体に対する恋愛感情はどんなに長くても3年しか続かないという説をどこかで耳にしたこともある。叶えられそうでなかなか叶えられない場合など、状況によってはだらだら長引くこともあるが、恋は必ずいつか終わりを迎える。一つは相手がその恋を受け取り、恋が結ばれたとき。もう一つは恋がきっぱりとまたは緩やかに拒絶されたとき。恋が結ばれたとき、その恋は終わりを迎え徐々に愛に移行していく。恋が拒まれたときも、感情の強制終了が必要になったりとより苦しい過程を辿ることも多いが、それを経てやはり愛へと移行するのである。あくまで私の場合は。

 私は今までの人生で、一度胸を焦がした相手のことを嫌いになってしまったことがなく、燃えるような感情が過ぎ去ってもその人のことをいつまでも愛おしく感じるのだ。しかし私の妹は、別れてしまった相手のことは顔も見たくなくなり、その彼がプレゼントしてくれた物も一切捨ててしまう。恋と愛の在り様も人によるのだなと思う。

 正確に言うと、バリエーションがあるのはむしろ「愛」の在り様なのではないか。「恋」への入り方や取り扱い方、終わらせ方は人により様々でも、恋をしている只中の恋という感情そのものは、私も友人Nも私の妹も大差がないように思えてならない。一日中相手のことを考えて苦しくなったり、姿が見えただけでドキドキしたりするあの感情のことである。私の体感であるが、いくら歳を重ねてもこの感情は若いときのそれと全く変わらない。その感情の取り扱い方は、多少賢くなった分進化していると思いたいが、やはり同じく抗えないし、歳を経てからのこの感情は遥かに身に堪える気がする。

 人によっても年齢によってもあまり変わらない恋という感情の正体は、

「あなたと心も体も一つになりたい」

という願いに他ならない。恋の感情に翻弄されている只中において性欲というものが意識に上っているかどうかは別として、恋のベクトルはそこにあると私は思う。性欲も込みで、魂がどれほど深く相手を求めたかが、恋の感情の本質であり、思いの強さに関わっていると思う。

 人は何度でも恋をする。私は2人の異性への愛に悩んだ経験もあるが、実は「恋」というのは同時に2人に対しては起こりえないものだ。それに対し「愛」というのは、その形も在り様も実に様々で、無限にバリエーションがある。そして同時にいくつでも持つことができ、比較とも対立とも無縁である。

 そんなことを、苦しみの末に理解した四十路の恋でした。これからの人生、恋をしたときは謹んで学び、たくさんの愛を日常の中に豊かに滞りなく巡らせられる人になっていきたい。

~~~~~ここまで、2995文字。~~~~~~

THE COOL NOTER賞に応募するために書いてみたんですが、こっ、このテーマで応募してもいいものか怖気づき中……。

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