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心を動かすことを怖がらずに生きられるようになるまでの話-前編

こんにちはごきげんよう、かちやまです。

音沙汰なくてすみません、元気がなくてしばらく何も書けませんでした。

コロナウイルスで何をすべきか、何をするのが正しいか、きちんと理解している人もそういないでしょう。それがわかっていても、立ち止まってしまう2020年だったような気がしています。

今日は『心を動かすことを怖がらずに生きられるようになるまでの話ー前編』。
ちょっと長くて途中で下書き保存したのですが、自己満足でも最後まで書こうと思いました。

私は最近まで心で感じ取ることを自分自身に禁じていたのですが、少しずつやっと解禁できるようになりました。思春期か?って話みたいで申し訳ないんですが、意図的に心を使って生きることを辞めていました。
正直疲れるしいいことない、と思っていたからです。
でも自分の心に正直に感動したり表現することができ始めて最近やっと、自分のアウトプットに自信と愛着を持てるようになりました。

心を使うことを辞めたのは31歳の時。
30代に入ってからは大体心使ってないですね笑
その節は感動したりしてるふりしててすいませんでした。

心を使うことを辞めたきっかけは、自律神経失調症になったことです。
じゃあ自律神経失調症になったきっかけは?話せば長くなるんですが、自分の結論としては、たぶんもうずっと小さいころからストレス持って生きていたと思います。それが31歳の時に受けた様々な衝撃で溢れ出ちゃったんでしょうね。重度の自律神経失調といわれましたけど、行った先の病院の先生が当時の職場の上司と同じ苗字だったので、余計にストレステストの結果に影響したと思います。

2013年の7月の半ばでした。祝日なのに上司と一緒に早稲田まで打ち合わせに行って、2000円くらいする豪華なパフェをリーガロイヤルホテルのラウンジでごちそうになりながら、大量の仕事を渡されて、とぼとぼ独り真っ暗な恵比寿の会社に帰ったのでした。
カーテンも閉め切った休日のオフィスで突然涙が止まらなくなって、それからおよそ2日ほど泣いていたと思います。何がそんなに悲しかったのか。その日リーガロイヤルで豪華なパフェをごちそうしてくれた上司が待ち合わせ前に、高田馬場の駅できれいなmina perhonenのスカートはいてるのに、駅前の段差に腰かけて必死でiPadでメールを打っているのを遠巻きに見て、気がおかしくなりそうになったことがきっかけです。

でもなぜそんなにその上司が必至だったのか。
そこからさかのぼることおよそ1年ほど前に、ある日突然親会社あてに東京国税局が来てトラック一杯書類を持っていきました。その後私が所属していた部署は独立することになり親会社から切り離され、その上司は突然社長になりました。
それでそれから上司は自分の事業をを守ろうと必死だったのだと思います。
辞めていく人もいて、元々5人くらいの女性ばかりの部署だったのに3人になり、家庭がある人は即帰っていき、私自身も仕事のことをほぼ誰にも相談できませんでした。
当時の私はそんな中で事業を継続させるために必死な上司の姿を理解することも寄り添うこともできなかった。今考えるとめちゃくちゃストレス耐性がなかった。本当にごめんなさい。

発病する2か月前には、初めてお付き合いした人に振られて知ってる人と付き合い始めていることを知ってとても落ち込んでいたし、追徴の納税が済んだと聞いてもう元通りかと思っていた矢先に国営放送で脱税疑惑が流れたり、自分の未熟な想像力を超える出来事がいくつかありました。

2日間泣いた後病院に行って仕事を1カ月休むことになったので、ごろごろして、ジョジョを全館読破して暮らしていたところ、1カ月はすぐに経ちました。妹の家に居候して、育ち盛りの甥っ子と一緒だったので楽しかったし実家に一瞬帰ったような気もする。甥っ子は2歳になりたてで言葉を覚え始めていて、「おねえちゃん」と「おくすり」を言えるようになっていたほど、みんな心配してくれてました。今でも思い出すと泣ける。でもそのころのほかのことはあまり覚えていません。

そうして1カ月経ったお盆の終わり頃。ああ仕事辞めなきゃいけないな、休むのか転職するのか、どうしようかなと、リクルート社に面談に行きました。
休職すると履歴書に傷がつくから転職したほうがいいですよ、と若い担当に言われて、まあその通りだなと思ったのを覚えています。
帰り道とても具合が悪くて、親からも、お盆明けは一体どうするんだ、仕事に行くのかと連絡が来ていて、正直電車に乗るのもつらいのにどうしたらいいのかわからずに家に帰ったことを今でも覚えています。
私はその日面談してくれた人から次の職を仲介していただいたので恨んではいませんけど、困ったときは自分より人生の経験ある人に相談するのがいいですね笑 
今考えると穏便に休む方法いくらでもあったはず笑

面談から帰宅したその日の夜。顔が目いっぱい腫れて呼吸もつらくて熱も出て苦しくて、全身に蕁麻疹が出て、朝を待って皮膚科に行くことになりました。寝れなかった。鏡見たら目は開いてないし見たことない顔になっててまた泣きました。それほどに私の身体は会社に行きたくなかったようです。

会社は辞めたものの、蕁麻疹は消えませんでした。顔は普通になっても、いろいろなところに細かい発疹がでて何日もかゆかった。あーずっとかゆかったな…。
親は娘が心の問題でそうなっているのを認めたくなかったのかもしれませんが、家が汚いからだと言ってまず布団を捨てさせられた。
大きいままだと捨てられないから泣きながらふとんを小さく切り刻んだのも懐かしい。食べ物のせいかもしれないと、乳製品を控えたり、肉を食べるのを辞めたりしてみました。この時ずいぶん痩せてた。

でも自分としては心の弱さがそうさせていることに気づいていました。
このころから、知らない人がいる飲み会に行かなくなり友達とも会わなくなりました。心の揺らぎを小さくしないと何もできなくなっていた。ミスチルなんかもう絶対聞けないし感動する映画も見ないし写真も撮らない、友達の結婚式とか誕生日とかそういうのでワイワイ騒いだりするのがもう無理。

バイトなどをしながら4か月後に転職した先では、なんとか普通を装っていたけど、『お客様の想いに寄り添う』なんて仕事でしか捉えられず、家づくりに対する想いが強すぎるお客様が怖くて、デザインが上手く行って美しい家ができても、どこか私の中に穴があって手放しで喜べず、工事業者さんにもお客様にもご迷惑をかけるようなことがたくさんありました。

なのでデザイン自体も辞めることにしました。気持ちを込めて、とか想いを汲んでとか、そんなの別に演じりゃいいと言ってくれるような大人もいなかったし、それぞれ自分が目立つことに重きを置くベンチャー企業の中で誰も信用することができませんでした。本当すいません、本当に誰も社内の人の言う事は信じてませんでした。

出来るだけファクトベースで進められる仕事をしたい。
周りはとても不思議がっていました。仕事や現場でのミスや、お客様からのクレームは誰しも抱えるもの。向き合って乗り越えられると。
設計担当の事例を雑誌に掲載していただいたり、お客様がテレビで取り上げられたり、私が担当の物件のメディアをきっかけに入社しましたと言ってくれる中途社員の方がいたりしたので、何故デザインを辞めるのかと。
今考えると表裏にどんなことを抱えていたとしても、誰より私が一番に喜んで自慢するほどの精神力があれば、もっとたくさんの喜びや嬉しさを共有できたんじゃないかなと申し訳なく思っています。

そしてそれができるのが本当のプロフェッショナルだったと思います。

じゃあどうやって私は、心を使っても大丈夫おっけー!バリバリ感動しようぜ!みたいなノリまで回復したのか。

長くて恐縮ですが、後編で書いていこうと思います。

個人的なお話を垂れ流すことに躊躇はあったけど、同じような苦しみを感じている人や出口を探している人に、時間がかかっても少しずつ人は変わって前に進んでいくという事を共有したかったのでUPしました。

最後までお目通しいただいた方本当感謝ですありがとうございます。

ご興味ある方はまた後編でお会いしましょう。

またね。

かちやま

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