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バスターが死んだんだぞ。

バスを待っているロータリー、本屋へ向かう地下通路、何でもない場所で不意に思い出すことがある。思い出すと立ち止まってしまう。だって”バスターが死んだんだぞ!”


数年前、イギリスで動物福祉活動をされている方のブログへ行き着いた。ブログのタイトルが「私に何の関係があるというのだ」。ちょっと気にかかるでしょ?

そこで見付けたのがこんなテクスト。

ー ハッタスリー卿はイギリス政界の要人かつ重鎮で、すぐれたジャーナリストでもありました。
15年連れ添った雑種のバスターをなくしたときは「人生最悪の日」だったそうです。
彼がデイリーメールに寄稿した記事は胸をうちます。
15年間彼の成長を見てきた。賢くなるのを見てきた。
年老いていくのを見てきた。
獣医は彼は天寿を全うするだろうと予測した。
これ以上疲れて続けられなくなったときが逝くときだと。

「そのときは彼はあなたに教えるよ。」と獣医は言った。

そしてその通りになった。

短くなった毎朝の散歩でさえもきつそうだった。
朝ごはんもゆっくり食べると決めてしまったようだ。
そして一旦横になるともう起き上がるつもりはなかった。

最後の決断はバスターにとって一番良い方法に             基づくものでなければならないが、                  私の安楽死の選択をひきのばしたいという気持ちとの戦いであった。

ある朝 私は一瞬の苦悶のときを過ごした後、獣医に電話をかけた。
獣医はすぐやってきた。

バスターはブルーチーズのかけらを食べながら死んだ。
普段は食べることを許されなかった、
錠剤を包むときだけ口に入れられた大好物だったブルーチーズ。

私の悲しみだけが特別だというつもりはない。
どれだけ多くの家族が落胆と絶望に陥っているだろうか。

ただ事実をここに述べさせて欲しい。

人生の中でバスターが逝ってしまったことほど痛みを感じたことはなかった。

そして人前で我も忘れて泣いて取り乱したこともなかった。

一階の私の仕事部屋の窓から
人々が日々の生活を送っているのをながめているとき、
驚きとともに怒りを覚える。
なぜそうやって普通どおりの生活を送っているように振舞っているんだ。
時計を止めろ。
バスターが死んだんだぞ。


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ぼくには三つ歳下の妹がいる。

大學時代は博多で井上悟さんという名物アナウンサーのアシスタントとして、深夜放送を担当していた。

その頃、ぼくは横浜、東京に居て、帰省もせず妹にも会うこともなく無為に時をやり過ごすやっかいものだった。

幾く年かが過ぎ、妹は英語の先生になる勉強を始めた。

妹が両親と暮らし始めて数年。

父は我慢強い人で、痛いということを言わない、それが男だと思っていたい節がある。そんな父が、ある時自分からホームドクターに診察を受けに出かけた。

わが家の主治医はその頃もう八十歳を超えていたと思う。診断は胃潰瘍。

お酒を慎んで過激な運動はやめるようにと。母が、大きな病院でも診てもらいましょうというと、お世話になってきた先生がおられるのに、そんな失礼なことが出来るか、と。そんな父でした。

それでも回復の兆しがなく総合病院に入院することになった。病弱な母に代わり妹が泊まり込みで看病した。

父は癌だった。

入院して六か月。父は逝ってしまった。その夜、妹は気絶するように倒れ、幾日かを眠りの中で過ごした。

駄目な兄は、父が危篤に陥っているころソウルで依頼された新規事業に立ち上げに走り回っていた。

父に対面したのは一日後の深夜だった。

妹も母も、さぞこころ細かっただろうと思う。

それから妹は、大学や短大で英語を教える講師の職につき、時々、県知事の通訳をしたり、留学生に日本語を教える講座を開発したりしていた。

妹は母と二人で暮らしていた。

ある日、母から妹がおかしくなっていると連絡があった。

動物好きの妹と母は、ぼんくらな兄の代わりに捨てられたり、迷い込んでくる犬や猫を拒まず家族の一員として、それはそれは可愛がっていた。

その中の一匹の老犬が、散歩中に川に落ちておぼれて死んでしまった。

川に飛び込んで助けようとした妹の目の前で、腕の中で息絶えた。

実家に帰ってみると、妹は日の当たるデッキで毛布に包んだ老犬のからだを、やさしくなで続けていた。

小さな声で、ごめんね、ごめんね、ごめんね、

横に座ったぼくに妹は、”わたしが関わると大切なひとたちがみんな死んでいく”、そのようなことをつぶやいた。

何も言えなかった。

しばらくそうしていると妹が小さな声で、お兄ちゃんお願いがあるの。ロンちゃん(老犬はそう呼ばれていた)を送ってあげたいの。ペットの葬儀屋さんを探して。

高校の同級生に教えられたペットの葬儀屋へ向かうぼくの目には、見覚えのあるはずの故郷が錆びついた無色の街並に映る。

行きかうひとたち、

車に乗り込もうとしているおばさん、

果物屋の奥で新聞に目を通している大将、

カブに乗って通りかかる新聞配達のひと、

ぼくの妹がおかしくなってるんです。

妹の大切なロンちゃんが死んでしまったんです。

妹があんなに悲しんでいるですよ、

何とか言ってくださいよ。

ハッタスリー卿のバスターが死んだんですよ!

何とか言ってくださいよ。


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ハッタスリー卿とバスター、妹とロンちゃん、ぼくはときどき佇んで空を見上げている。


*ハッタスリー卿とバスターの画像がまずそうなら削除します。

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