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今宵、雨宿り。

数寄屋橋の交差点に出てみると小雨が降り出していた。

かみさんの本棚には、村上春樹の著作がほぼ揃っている。

ぼくがこれまでに読んだ村上作品はみんな彼女の蔵書。

夜半の雨はあがっていたが、名残の雨雲が町をおおっている。
どうしても再読したい本があって、棚から棚へ、何度も行ったり来たりして探すのだが出てこない。二重に並べられた文庫の棚の奥の奥まで探したが見当たらない。

ぼくの本棚も探してみたが気配もない。
ほぼ揃っている村上春樹の著作の、よりによってデビュー作『風の歌を聴け』が、その“ほぼ”のなかに入っている...
いや、それはないだろう。あるとすれば、ぼくが無断で借りてどこかにやってしまったかだ。さて、どうしたっけ、と、おぼろな記憶をたぐってみるが何も引っかかってこない。ということで曇り空の午後、本屋さんに行くことにした。

わが家の近くに本屋さんがないわけじゃない。
大きなショッピングモールの中にも、最寄りの駅ナカにも本屋さんはあるのだが、「本を探す」という行為は、ぼくにとって「街を徘徊する」とほぼ同義語で、その索引には「塩梅独酌」と付されてもいる。
よって、1,目指す本があれば上々 2,本屋さんを起点に街を徘徊しながら 3,どこでこの本を拾い読みするか 
以上の3点を満たすには、必然、街場へ遠征しなければならないのだ。

おまけに、友だちの酒場にずいぶん顔を出していないことに、”偶然”気が付いた。

有楽町に出た。

一冊だけあった文庫版の『風の歌を聴け』をセルフ・レジ(お姉さんのサポート付き)に通して、ビルの地下からあっちこっちに伸びる連絡通路を通って、ここらだろうと見当をつけて地上に這いあがってみたら、ありったけのビードロを放り投げたらこうなります、みたいに数寄屋橋の濡れた舗道が虹色に揺れ輝いている。

さて、どうする。
どうするじゃない。ほぼ確信犯でしょ。
友だちの「Bar」はまだ開店前で、あと45分時間調整が必要だ。
交差点から一番近い酒場で雨宿りだな、って、それが確信犯。

職をもっていたころ、出張のたびに通っていた北新地の「Bar」の銀座店が近くにある。
ハイボールとローストビーフ・サンドを注文し、小さなテーブルから店内を見廻す。
地下にある酒場は、禁酒法時代のシカゴの「隠れBar」と言われれば、すぐさま納得してしまう風情。
時計の針も、バーテンダーも、カウンターで夕刊片手にハイボールを口にはこぶ男たちも、何十年もそうしてそこにいるみたいだ。

サンドイッチのパンは大阪の職人に特注していると聞いた覚えがある。
かみしめると小麦のうまさがじわりとひろがる。
氷の入っていないハイボールと、自家製ピクルスをやりながら持参の文庫本のページをひらく。手に入れた方の文庫本は明日まで取っておく。

年寄りといってもぼくより若いと思われるテーブルの5人が楽しそうだ。わいわいやっているが、適度に抑制が効いていてよろしい、なんて思いながら、さて、さて、そろそろじゃないか。

丸の内、日本橋、銀座を廻って『風の歌を聴け』を買い、柴崎友香さんの『百年と一日』を読みかじりながらハイボールとローストビーフ・サンドとピクルスをやった。
最後は、偶然思い出した友だちの「Bar」へのご挨拶、相互の生存確認だ。

小雨の舗道を新橋に向かって、銀座一丁目か、二丁目あたり。やはり地下にもぐる。

“神の手”と称された天才の名前を冠した友だちの店は、開店したばかりでぼくが一番乗り。
友だちは、彼が二十代のころと変わらない立ち姿でカウンターの向こうに佇んでいる。
ふたりは、過不足ない挨拶を交わし、ぼくはカウンターの右端に腰を据える。

「ラフロイグをソーダで割ってもらおうかな」「ピールをぴゅっと」
彼が「はい」と言ったかどうか忘れてしまったが、ぼくは椅子に深く腰掛けて、雨が舗道を叩く聞こえてはこない音を聴こうとしている。

むかし、えらい小説家が「酒場は人生の学校だ」と言った。
そうだったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。

だれが言ったか「酒場は一時の止まり木」というのもあった。
当たり前だ、と言われれば返す言葉がない。

“神の手”酒場で、ぼくらが話すのは、いつも決まってむかし話。
ぼくらが確実に存在したあの日のこと。

ぼくの酒は、バーボン・ソーダに移り、マイヤーズのダークラムのお代わりに至り、ついにはふたり分の酒精が消え去った。

降り止まぬ雨。
一瞬も、永遠も、ほんのさっき消え去った。
明日のことも、明後日のことも、もっと先のことも話さない。

ぼくは、今宵も、こうして雨宿り。





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