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何者でもないという選択肢

「あなたは何者なの?」。若い頃、人事の研修で聞かれた。何者でもないあなたは、何者かである誰かより劣位だ、とマウントを取られているようで、嫌な感じだ。「何者かである」は、「何者でもない」より立派なことなのか? 

例えば、田舎の農家の子として生まれ育った二人の同級生、A君、B君を想定しよう。

A君の認識はこうだ。

自分は農家の長男として生まれ、そして育った。この土地の自然と人々に育てられたといってもよい。父母は元気だが、いずれは長男の自分が面倒を見なければならない。高校を卒業したら親孝行しながら先祖代々の田畑を守り抜く。これこそ自分にとって、生まれながらの使命だ。

立派な生き方だ。18歳にして「何者」完成だ。

一方で、B君の認識はこうだ。

自分の故郷は、自然も人も素晴らしい。しかし、キラキラした都会に比べて何もないことも確かだ。今後、自分に何が出来るか、自分が何をしたいかさえわからない。しかし現時点で、農家の跡継ぎ以外の可能性に蓋をし、この村に留まるのだけは嫌なんだ。高校を卒業したら東京へ出よう。東京へ出たら、お金を貯めて、東京でべこを飼うんだ。

「何者かである」ことを保留し、「何者でもない」を選んだのだ。決して後ろ向きな決断ではない。A君に負けない立派な生き方だ。

自分の過去を振り返っても、実家を出る、キャリアチェンジする、海外に引っ越す、といった行為は、それまでの「何者かである」を捨て、新たに「何者でもない」を選択する行為だった。少し何かに通じ、「何者か」がおぼろげに見え始めてくると、それ以外の可能性が閉ざされていくようで嫌だ。あえて「何者でもない」に戻ろうとしてきたのだ。後悔はしていない。

何故あらためて、こんなことを考えたかというと、テレビで大谷翔平君を見ていたからだ。大谷君が若手社員なら、企業の人事は、「あなたは何者なの?」と聞くだろうな、と。「エースなの?スラッガーなの?」。「それ以前に大谷翔平です」という答えは受け入れられないんだろうなぁ。

何者でもなくても、大丈夫だよ。


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