見出し画像

第156回 政治家とは・・・・

政治家とは、その社会に属する人々に降りかかる「risk」に対して、適切に「risk management」することを生業にしている人のことです。
発生する「risk」を予測し、その「risk」に順位付けをして、「hedge」するか、「許容」するかを選択します。
そうして、人々の生活を安定、発展させることが、政治家の使命となります。

ただ、企業や団体でも同じですが、規模が大きくなれば、降りかかる「risk」も多くなります。
多くなれば、「risk」に対して適切に順位付けをすることが難しくなります。
例えば、最近で考えれば、「水害」と「貧困」という2つの「risk」がクローズアップされています。
「水害」は発生しない限り、「hedge」しても、その行為自体が無駄になります。
しかしながら、「hedge」ではなく「許容」を選択したら、大変なことになります。
一旦発生してしまえば、多くの被害が発生し、復旧に多額の費用が掛かってしまうからです。
ですから、そう簡単に「許容」を選択することはできません。

反対に、「貧困」は、常時発生している問題です。
それでも日本の「貧困」は相対的「貧困」と言われ、腹いっぱい食べることがはできませんが、餓死するほど酷くは無いということです。
耐えられると言えば、耐えられないほどではないということです。
つまり、直ぐに「hedge」しなければ、餓死者が出るほどでの問題では無いのです。
それでも、一部の国民に我慢を強いることになる訳ですから、その不満が爆発する前に「hedge」しなければならない問題であるのには間違いありません。

この2つの「risk」に対して、どちらか一方しか対策できないとなった時に、あなたならどちらを優先するべきと考えるでしょうか!?
正直なところ、個別に考えればどちらも優先すべき事項だと思います。
しかしながら、今は片一方しか対策できません。
この難しい選択を迫られたときに、その選択の助けになるのが「思想」というものです。
つまり「思想」というのは、自分で選択することが出来ず迷うときに、選択の指標となってくれるもののことです。

実は、「災害」というものは、外敵に置き換えられます。
いつ攻撃してくるか分からない敵に対して備えることと同じです。
台湾では、外敵に備えて国土強化をしていたので、地震発生からの復旧が、日本とは比べ物にならないくらい早かったです。
本来の国は、外敵から国民を守ることが、第一の目的として存在しています。
そういう意味で、「災害」対策は国防とも言い換えられ、国家の根本的な存在意義ともいえる訳です。

また、「貧困」というものは、内敵に置き換えられます。
国家による「貧困」対策は、治安維持、秩序維持のために実施されなければなりません。
国家の治安、秩序を維持するために、自分が犠牲になって死ななければならないというのは、国家の存在意義として国民を守るという考えからは本末転倒です。
だから、治安、秩序を維持するために、全ての国民に対して最低限の生活を保障する必要がある訳です。

このような選択を、古代中国の歴代の皇帝や王たちは迷い続けていました。
そこで彼らが頼りにしたのが卜占です。
当時は科学未発達の時代ですから、多くのことが謎に包まれていました。
謎、つまりそのメカニズムが分からないということですから、選択したくてもその材料が無かったという訳です。
そこで卜占に頼ったのですが、彼らは単に占って適当に決めたのではなく、当時の人々が出来ることは、しっかりやっていたのです。

つまり、亀の甲や獣の骨を焼いて、そのヒビの入り方で結果を想定することが卜占です。
そこで当時の王たちは、卜占する度に、その亀の甲や獣の骨に、占った内容とその結果を書き加えて残していった訳です。
そして、その卜占自体が正しかったのかどうかまでを書き加えていました。
この為に発明されたのが甲骨文字であり、漢字の原型に当たるものです。

彼らは卜占を記録し続けることで、正しい選択ができるようになると信じたわけです。
つまり、選択を間違えたことを記録すれば、次に同じような状況になった時に、逆の方を選択すれば良いと考えたわけです。
この考えが中国の歴代王朝に伝わり、それぞれの王朝には正しい記録を残すための「史家」という役職が設置されました。
また、「歴史書」を作成するという文化も生まれた訳です。

このように政治家は、国民の為に正しく「risk management」をしなければならない存在な訳です。
これは、国民を不安にさせず、安心して生活を営ませるという義務を負っていると言えます。
この義務を遂行できなければ、当然、政治家として失格の烙印を押されてしまいます。

例えば、某県では、職員2名が自殺しました。
その2名は、多分、某県の県民だったことでしょう。
当然、某県知事は、その2人の生命を、死亡という「risk」から守るという義務を負っていたはずです。
ところが、その義務を果たせずに、死に追いやってしまいました。
その2人が、他人を死に追いやるほどの悪辣な行為をしていたのなら、当然、県民全体の「risk management」として、死なせなければならなかったかもしれません。
しかしそうではなく、自分に対する悪意だけであれば、その悪意は「許容」するべきものだったでしょう。
なぜなら、それが人の上に立つ者の「器」、政治家としての「度量」として、確立しているからです。
それを選択出来なかった時点で、某県知事は政治家の「度量」が無いと言える訳です。
そして、「度量」が無いということは、「risk management」への意識が低く、正しい「risk management」が出来ないという訳です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?