見出し画像

自説を繰返すことを「議論」とは呼ばない

今日たまたまtwitterで見かけたこのことばにハッとさせられた。

発言の主は、岩田健太郎教授。今回の新型コロナウイルス関連で注目されている感染症の専門家だ。ダイヤモンド・プリンセス号の状況に警鐘を鳴らした動画は世界中で話題となった。あの動画は劇薬ではあったかもしれないけれど、確実に日本社会に大きな(ポジティブな)効果をもたらしたように思う。動画そのものがもつ意味もさることながら、ぼくみたいにあの動画をきっかけに岩田さんのことを知り、発言を追うようになったことで、その理路整然とした解説を読んで冷静になれる、という人も多いのではないだろうか。


そんな岩田さんが、一般の方とtwitterでやり取りをしている中でタイトルにあることばが出てきた。その発言が出てきた経緯は、岩田さんが一般の方の質問にはできるだけ答えたいとしつつ、過度な主張や、自分を論破しようという試みに対して遠慮してほしいと呼びかけ、プロとアマチュアの議論にはそれなりの方法がある、と述べたことが前提にある。その流れで、このツイートがあった。以下引用する。


こんにちは。コメントありがとうございます。プロとアマチュアが議論してはいけないとは少しも思いません。ただ、やるときは「議論をする」という合意が必要です。議論とは、「自分が変わる覚悟」ができているときにするもので、自説を繰り返すのは議論とは呼べないと考えています。


~引用ここまで


議論というと、日本ではなんとなく「避けるべきもの」というイメージがある。本来的には「議論」にネガティブな意味合いがないことはわかっているのだけど、会社や取引先の人と「議論しよう」と言うことはほとんどない。「ご相談」などという言葉に巧みに言い換えられることになる。「議論」という言葉からはどこか「言い合い」のような印象を受ける。思い浮かべるのは、国会での政府と野党の応酬だ。なぜなのか。


岩田さんのツイートを読んで、すべてがスッキリした。国会のやり取り含め、日本人が「議論」と呼んでいることの多くは、お互い「変わる覚悟」がないのだ。「自説を繰り返す」だけなのだ。いつの間にか“勝ち負け”を争う場のようになっている。それを議論と呼んでしまっては、知らず知らずに避けようとなるのも当たり前と思える。


言うまでもなく、自説を述べること自体は悪いことではない。むしろ重要なことだ。問題は「自説を曲げる・取り下げる」ことができない人が多すぎるのだと思う。その根底には“朝令暮改”や“変節”などということばがあるように、発言を変えることを許容しない文化があると思う。

議論の目的は自説を通すことではなく、協力して、より合理的・効果的な結論にたどり着くことだ。そのことを忘れないようにしたい。


それにしても、この短いツイートで簡潔に本質を述べる岩田さんの言語化力はすごい。ふだんからよほど思考が整理されていないとこうはいかないだろう。感染症の専門家としての知見はもちろんだけど、その語ることば、文章にも注目していきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?