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読書① 人生の充実について

エスプレッソのように濃密な、充実した人生を送りたい。
「人生の充実とは何か」と誰もが考えたことがあるのではないでしょうか。

いやそんなことはないかな。
おそらく、人生が充実している人はそんなことは考えないが、充実していない人は考えるのかもしれません。
考える人はぜひ、私と友だちになってください。

さて、この問いに答えるため、「生き甲斐の社会史―近世イギリス人の心性」を読みました。

生き甲斐の社会史―近世イギリス人の心性

真の至福が達成されるのは来世

舞台は16世紀のイギリス。この時代の人々には、物質的な制約が大きく、個人の選択の余地はあまりありませんでした。
貧困、不健康、早すぎる死などが、無数の人生を未完に終わらせたのでした。

社会的地位に依る、模範的な振る舞いがありましたが、個人の社会的地位が選択可能になるのはきわめて稀でした。
(自らの身分への)満足こそが徳とされ、生まれつき「徳をもって、正直に生きる」ことを命じられ、これこそが人生の目標で、人はみなこれを目指し、行動を関連づけるという思想でした。

この時代において、人間が人生の充実を求めるべきは、この世ではなく次の世においてでした。

近世イギリス社会と現代社会

1660年以降、イギリスの支配階級の間では、「個人の社会的位置の選択」に関して「教育」というソリューションが提案されるようになってきました。

一方、「読み書きができるようになったのに、農民や御者の身分に甘んじる者はいないでしょう(つまり下層身分の者に教育は不要である)」という、国王チャールズ2世への進言もあったようです。

人間は自分自身に対してではなく、生活している社会に対して義務を負っているという考えでした。

そんな当時においても、「個性」の認識はありました。

古典古代以来、その存在自体は鋭く認識されていたものの、近世ではより目に見えるようになりました。
画家、彫刻家、文学において「個性」を捉えたものが「作品」として登場するようになったのです。
まだ人に選択の自由はなく、それぞれの仕方で自己実現をはかるのが信念であったとはいえ、芸術における表現の萌芽は、来世にしかなかった充実が現世へと引き寄せられるようになってきたと言えます。

翻って現代について考えました。

近世の「人間は自分自身に対してではなく、生活している社会に対して義務を負っているという考え」から、現代はなんだかあまり変わっていない気もします。

生活している社会の可動域は広がったことが、人類が成し遂げた進歩なのかもしれません。
個性の存在は周知の事実で、その個性を使える場所としての「生活している社会」を選択できることが、現世の充実へとつながると言えそうです。

職業は選択でき、作品を作るハードルも下がりました。このnoteも然りです。
社会を自分で創っていくことも、社会のなかに位置取ることも、自分をどこに置くかについてはコントローラブルなものになりました。

だからこそ自分の個性を創ることが大事なのです。
個性の意味するところは、目に見えるかたちになった信念です。
徳をもって、正直に生きるためには、自分の個性が拠り所となるのです。

人生の充実とは―結果なのか、過程なのか

本書では、「充実」に関する現代の考え方について、「人間の自己開発」という言葉を用い、以下のように述べられています。

音楽の才能、スポーツの技能など、人びとの能力を高め、
愛されたい、有名になりたいなど、個人の奥深くにある欲望に向かう状態が、
「自由で創造的」な生活を送っているということである。

つまり、充実とは満足のいく「過程」と言えるのではないでしょうか。

「結果」の方は16世紀における「来世の至福」と同じであり、それ自体が充実をもたらすものではないです。個人の奥深くにある欲望の充足という、「結果」に向けの過程の側が、「自由で創造的な生活」であるのです。

西暦の人類史を通じ、人生の充実はその進行中にあった時間よりも、終了後にあった時間の方が長いのです。
現代まで積みあがった人間の思想の地層の厚みを考えると、生きている人は人生の充実を感じていないことは何もおかしくはないと言えます。

「人生の充実とは何か」と考えているのは、人生が充実していないからかもしれない。
という書き出しをしましたが、これは逆で、現世においてこれを考えられることこそが、人生の充実への一歩ではないだろうかと思いました。

人生という生きた結果の途上で、充実について考え、そこに至る道を楽しめる、そんな充実した過程を送りたいものです。

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