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この景色は神が創ったと観るか、この景色に神が宿っていると観るか


スイスのパワースポットに小旅行。多次元的宇宙の勉強を始めてから、大地の切れ目に宿る、レイラインや地のエーテル体を意識して、土地を視るようになった。

スイスの山々も、相当なエネルギースポットのはずなのだけど、スイスの山に来ると、毎回、日本の自然について考えさせられる。

こちらの写真は長崎県佐世保市、私の実家の裏山にある八百万の散歩道。


日本の自然は、あまりにも畏れ多いのはなぜだろう。誰も来ない森の中に小さな鳥居が現れたり、山道の入口にも鳥居が祀られていたり、散歩していて突然現れる巨大な岩にしめ縄が締められていたり。あの、やんちゃな息子は、日本の八百万の神の前では、いきなりゴミを拾い出したり、頭を下げたり、子供なりに畏れを感じて敬意を払いだすのも興味深い。

スイスの山も景色には圧倒されるが、畏れ多く見えない感じがある。洗練された清らかさと美しさに圧倒される。

八百万の神として自然を祀った日本の古来の人たち。

一神教の全てが神が作ったというキリスト教の人たちが守ってきた自然。

私たちは、太古の人たちが築いた歴史というフィルターで、大地を潜在的に見ているような気がしてならない。

ここからの写真は、またこのスイスの山での写真。

90歳は越えている、おばあさんの仕事を子どもたちとずっと観察した。あのおばあさんは、この山のエーテル体と同化していたのが、印象的だった。
私も、おばあさんになるころには、どこかの土地のエーテル体と同化して、死を迎えたいと思った。

ちなみに、土地と人がエーテル体と同化してるって、どういうことかという話にちょっと触れると、

上の写真は、スイスの有名な観光スポット。
観光スポットに来ると、いろんな類の人でごった返すので、その土地のエーテル体はよそから来た人たちのオーラやエーテル体に飲み込まれていた印象だった。

あえて、観光スポットに観光旅行に行くことを毛嫌いする人たちは、観光客に景色が飲み込まれていることを敏感に不自然に感じてしまうからだと思う。
ここで、面白い発見は、初日の出や初詣のときに日本のパワースポットに人がごった返してるとき、その光景はごった返している人々の集合意識とパワースポットのエーテル体は同化していること。
太古から引き継がれてきた、日本人の土地に対する柔軟性な性質も興味深い。
こんなことを考えていると、私が何のためにスイスに辿り着いたのかという、使命的な物語の想像力がフツフツと湧き上がってきて、なんだか楽しくなってきた。

#パワースポット #エーテル体 #スイスアルプス #八百万


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