エッセイ:司書の仕事を続けていられる理由。

先日、仕事を早退してしまった。
職場でなぜか冷や汗が止まらなくなり、上司や同僚に甘え、家に帰って休むことにした。

思い返せば大学図書館勤務では、この3年間の間にコロナ禍・CAT2020・NACSIS-CATのリニューアル等の大きな変化が続いた。

大きな変化には、従来の共有事項を見直して再定義したり、新たな認識の共有を図る事が付きものだ。自分が思う以上にこの3年間は当たり前にこなしている業務について考えたり、説明する場面が多かったのかもしれない。

繁忙期なのに早退してしまったことに申し訳なさを感じながら「何で私は司書の仕事を続けられているんだろう」という考えがふと頭をよぎり、電車の中で色々と想いを巡らせていた。

一般的に、司書を志す人は「元々読書が好きで、誰かの助けになりたい」という理由を持っている事が多いとかつて耳にしたことがある。確かにこの業界では貢献や奉仕といった言葉をよく使うし、そんな理由から司書を目指す人が尊く眩しく感じられる。

なぜなら、私はどちらかというとその対極の人間だからだ(MBTIはIだったけど)。あくまで私が本を開きたいと思うときは、だいたい3パターンだ。誰かの考えを知りたい時・誰かと話したい時・どこかに行きたい時。要は時間や場所に関わらず人の話を見聞きするのが好きだからこの仕事を選んだといっても過言ではない。

こんな事を書いたら司書失格かもしれないが、私は読書が趣味と言えるほどではないし、大好きとも言えない曖昧な位置づけだ。好きなことの一つではあるが、どちらかというと生活習慣に近い。読書という行動は、私にとって声を発さずにできる対話やおしゃべりのようなものであり、本は毎日話す家族や友人のような存在である。

特に整理の仕事に従事するようになってからというもの、その想いを強くしている。
資料の誕生を考えると、たくさんの人が時間や体力を削って出来た知的生産物だと感じるし、ある意味著作者の分身とも言えると思う。つまり私にとって図書館資料とは、人とほぼ同義とも言える。

仕事を通じて種々多様な図書館資料と出会い、その喜びは数知れないが、やはり現実の人付き合いと同じように、苦手な資料も同じくらい存在する。

生理的に見た目が苦手なものもあれば、かつては閲覧請求が来たら緊張感が体に走るものもあった。大して好きでもないのに毎日目が合ってしまう本もいる。受け入れる度に悩むものは、山ほどある。

それでもこの仕事を続けていられるのは、きっと根底に人の話を見聞きするのが好きだという気持ちが自分の中に幼い頃から流れ続けているからだと思う。

私の場合は職場こそ何回か変わっているが、自分にとって図書館資料とはどんな存在なのかを明確にしたうえで、そのために自分が何を出来るのかを明確に話せる事が司書の仕事を長く続けられている理由の一つと言えるのかもしれない。

大きな変化はまだまだ続きそうだが、この変化を見届けられるよう、出会った図書館資料ひとつひとつ(一人一人?)を大切に業務に取り組んで行きたい。

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