マヂカルラブリーは「漫才」王者と言えるのか

これから述べることは、個人の見解であり、大学のお笑いサークルに所属し、漫才の進化について5万字近い卒論を書くほどお笑いをこよなく愛している一人の人間の戯言である。
全てが正しい訳ではないので、こういう考え方もあるのだと思って流し読みして頂きたい。

僕は今年のM-1グランプリを見て、史上最高の大会と言われた去年同様、顔の筋肉が引き攣るぐらい笑い転げた。めちゃくちゃに面白かった。
しかし、ネット上では「今大会はレベルが低かった」「マヂカルラブリーは優勝にふさわしくない」「漫才の大会じゃなかったのか」といった意見が多く見られた。
そんな世論に一石を投じたく、今僕はこの文章を書いている。


①マヂカルラブリーの優勝に価値はあるのか

本当に今大会はレベルが低かったのだろうか。
僕は、そう感じた人の好みに合っていなかっただけだとしか思えない。
漫才を「面白い」と思うかどうかは人それぞれであり、主に「漫才をどれだけ見てきたか」で分かれると考えている。

前提として「面白い」という感情は主に、常識や予想から外れた言動・行動を見聞きすること、もしくは違和感が解消されることで生まれる。
漫才は主に、前者の相当する「ボケ」と後者の相当する「ツッコミ」で構成される。

つまり、「普通はA」なのに「B」と言うことで「ボケ」が成立する。
しかし、漫才をたくさん見ている人は「普通はAなのにB」というボケ方のパターンを見過ぎて、それを「普通」に感じてしまう。
すると今度は「AなのにBかと思いきやC」が「ボケ」になり、面白いと感じるようになる。
このとき、「普通はAなのにB」を「普通」だと思ってない人からすると「AなのにBかと思いきやC」は飛躍しすぎていて面白いと感じない。「Bかと思いきや」という予想が出来ないからだ。

だから、人それぞれ面白いと思う対象は違って当然なのである。
勿論、お笑いをたくさん見ている人が偉い訳ではない。
僕は名画とされてる絵の良さが分からないし、理解できる人が偉いとも思わない。
面白いと思うかどうかは、ゴッホが好きかラッセンが好きかぐらいの違いに過ぎないのだ。


こうした観点から見ると、今大会は、近年の流行と一線を画した漫才が多かったように感じる。
「傷つけない笑い」ブームに逆行するかのようにパチンコや軽犯罪をテーマとした漫才があったり、逆行していることを俯瞰して自虐的に使うチビもいた。
使い古されたよく見るボケに対して大声でありきたりなツッコミをする、という逆に新しい「AなのにBかと思いきやA」の漫才もあった。
知らん歌を歌うボケに「知らん!!!!!」とツッコまれたら笑うに決まっている。

つまり、今大会は決して低レベルではなく、マヂカルラブリーに与えられた王者の称号は史上最多5081組を勝ち抜いただけの価値があると言えるだろう。


②マヂカルラブリーのネタは漫才なのか

結論から言うと、マヂカルラブリーは漫才王であり、それ以外の何者でもない。
邪道でも何でもなく、正々堂々と自分達にしか出来ない「漫才」を披露して優勝するべくして優勝したと思う。

まず、そもそも「漫才とは何たるか」を定めることはナンセンスだと思う。漫才という文化の幅を狭め、発展を妨げる危険性があるからだ。

その上でよく言われる漫才の定義、条件を紹介しておく。

・マイク以外の小道具や音響を使用しない
・コントと違って本人が本人役を演じる
・その場で行われる会話という体を保つ

まことしやかに言われるのは、この3つぐらいであろう。

マヂカルラブリーは1本目、高級フレンチのマナーを教えて貰ってそのシミュレーションをしたいボケの野田クリスタルが、「間違ってるとこあったら言って」というセリフでコントイン。2本目は、電車のつり革に掴まりたくない野田が「その感じ見てて」というセリフでコントイン。

どちらも本人が本人役のままコントインし、村上はコントの外からツッコミを入れる。王道のコント漫才だと言える。
比較に出すのは申し訳ないが、マヂカルラブリーが漫才ではないとしたら、ボケが一人何役もこなす霜降り明星や、二人ともコントインするサンドウィッチマン・NON STYLEなどはもっと漫才ではないということになってしまう。
2本目の「つり革」に関して言えば、このネタを漫才ではなくコントにしてしまうと、村上も電車の中で転げ回りながらツッコまなければいけなくなってしまう。
片方がコントの外からツッコむという形は、「漫才」でしか出来ないことなのだ。

これでも「漫才」だと認めない人は、恐らく特に最終決戦の「つり革」に関して、「会話の掛け合いがない」と言いたいのだと思う。
「会話の掛け合いがないから漫才とは言えない」と言うのは、お互いに特に言葉を交わさない熟年夫婦を見て不仲だと言っているようなものだ。僕は、言葉を発するだけがコミュニケーションだとは思わない。

「つり革」をよく見てみると、野田が同じ動きを続ける限り村上はツッコミ続け、村上がツッコみ終わるまで野田は次の動きに移行しない。
「動いちゃうと周りの客に大迷惑になっちゃうから」という村上のセリフが言い終わるまで野田はほぼ定位置をキープし、野田の動きが大きくなった瞬間に村上は「もう結構動いちゃってるけどね」とツッコむ。
逆に野田が村上の「いいからつり革を掴め」「手すり手すり」というツッコミに反応してつり革や手すりに手を伸ばす部分もある。
そして両者とも観客の笑い声の量に合わせて、ボケの長さやツッコミの長さを調整して最大限の笑いを引き出している。
特に、完全に倒れて転げ回り出してからは、笑いの波が落ち着くまで野田は同じ動きを続け、村上はツッコミを発し続けている。

セリフだけの漫才は台本を固めることができるが、野田の動きのボケはいくら練習しても完全に同じ動きになることなどないだろう。
この一世一代の大舞台で、観客の反応を伺いながら動きやツッコミの大きさ・長さを微妙に変化させ、それでいてお互いがズレる瞬間など一切なかった。ツッコミのテンションもタイミングも完璧だった。

想像を絶する、とてつもない技術だと思う。

これでも「会話じゃない」「掛け合いじゃない」などと言えるだろうか。
こんなに舞台上で意思疎通を取っていたコンビがいるだろうか。


彼らには、もはや言葉すら必要なかった。

我々が目撃したのは、無言のボケと止まらないツッコミが激しくぶつかり合い、うねりのような笑いを起こす、「漫才の究極形」に他ならない。


M-1グランプリ2020。
マヂカルラブリーは、間違いなく「漫才」のチャンピオンだった。

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