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【エッセイ?】行間を端折ることへの功罪

先日、

とある質問サイトにてこんな質問をしました。


「エスカルゴに忌避感があるかを教えて 」

(給食にコオロギが出て大騒ぎと風の噂で聞いたので)



そうすると以下のような回答がつきました。

「話題になったのはコオロギなのになぜエスカルゴを題材に?」


この点について思うことがいろいろあったので忘備ることにします。



【文章を書く際に意図した点】

それは「空白」を自分の力で埋めて欲しいということです。


今回の場合では「コオロギは無理」では「サイゼリアのメニューにもあるエスカルゴは?もしくはエビは?シャコは?」ということ。


コオロギを食えるかと書かなかったのは、

コオロギが食えるかどうかなんて聞きたくは無かったからなのです。


そんなことよりは、食べ物への意識にまつわるエトセトラを聞きたかったのです。


【暗黙の了解は嫌い】

さて、私のこの質問については「言わなくてもわかるよな」という暗黙のメッセージが込められています。


「分かってくれるという期待」と言ってもいいでしょう。


しかし一方で、このメッセージは自分で書いておきながらかなり傲慢だったかもと感じています。



言わなくても分かるのは、自分の脳内が答えありきで書いているからであり、当人がどう思うかなんてしったこっちゃないからです。



【とは言え余白を読む力は大事】

「直接的な笑い」は時として人を傷つけるます。


特に昨今では、SNSで拡散されたいがために直接的な行為にでる人たちが散見されます。


それはひとえに、余白を楽しむ力が欠けているからだと思うわけです。


【余白を楽しめれば細かいことは気にならない】


時折文章のミスを鬼のように指摘する人がいますが、

「こう表現したかったんだな」とか「これはこうも考えられるな」とか考えながら読むことが楽しみになれば、ミスも楽しく解釈できるようになります。


ミスとは余白であり可能性であると私は考えているのです。


【侘び寂びのために】

文章の中ですべてを語りつくしてしまうのは、美しくないのではないかと思ってしまうのは私の悪い癖です。



そしてついつい穴ぼこだらけの文章を投下してしまう。

それは読み手の想像力に託すといこと。


文章というのは想像力が無ければ書けないし読めないのです。


なんといってもそれこそが、人間の魅力ではないでしょうか。


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