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「「自閉症の脱構築者」としてのデリダ」の可能性についての草稿

1.

 ヤニス・スタヴラカキスは、政治的な調和の不可能性の根底に、ラカン理論における疎外された主体を見る。自我は初めから分裂している。想像的な次元においては自我は他我として見られ、象徴的秩序の中に置き移された主体は、自らを代理する象徴物と自我との不一致の間に欠如を抱えてしまう。スタヴラカキスは、象徴的秩序の導入が常に不完全であり、現実界に通じた穴を抱えていることを、政治が政治的なものを覆いつくせないことに重ねてみとる。象徴界へ参入し、言語・記号的な次元で他者と接するようになった主体は、「幻想」としての「規範」(〈父の名〉、あるいは虚構としての「主人のディスクール」)による制御のもとにあり、しかしなおも現実的な享楽を忘れることができない主体が現れてしまうのと同様に、政治科学による「政治的現実性」(投票、政党、イデオロギー..…)という秩序は本来起源にあった偶然的な「政治的なもの」を忘却、抑圧しているのであり、説明しきることはない、とスタヴラカキスは語る。彼の指摘通り、ラカンは主体が他の主体と双数=決闘的な関係ではなく安定した関係を結ぶためには、「父性の欺瞞」などと呼ばれるような「見せかけ」の欠如ある秩序を受容することで、疎外と分離を経験しなければならないという風に述べる。しかし、逆説的に言えば、「疎外と分離」(原抑圧)は他主体との共役可能性をもたらす福音でもある。

2.

 ラカン派精神分析は自我との分裂をすべての主体に見出しつつ、主体を正常=規範化する秩序の側にも「妄想の普遍的臨床」(ミレール)を見出すことで、主体と対象の双方の欠如を一般化する。しかし、これらとは異なり特異な形で欠落を抱えた主体がある。自閉症である。自閉症者は疎外と分離(現抑圧)の過程を拒絶した主体であり、それにより現実的な享楽を刻み込まれた原初的なシニフィアン(S1)──ララング──を反復し、他のシニフィアン(S2)と連接させることを拒む。意味作用はシニフィアンが他のシニフィアンに送付されることで起こるために、自閉症者の常同反復するシニフィアンはなんらの意味を生じさせず、理解されることもない。象徴的な秩序を為すことなく、むしろ現実的な出来事にただ一対一に対応し、他のことばによって説明されることなく、他者とのコミュニケーションに供されることのないことば。そのような自分だけの、ひとつだけのことばを自閉症者は反復する。このような自閉症者のあり方は象徴秩序のとのかかわりにも表れる。自閉症者は自らを代理表象するシニフィアン(S1)を他の主体を代理するシニフィアン(S2)と連接することがなく、自らのシニフィアンに留まり、ゆえに不完全な形で象徴化されることがなく、主体は欠如を刻み込まれることがない。不完全な制御子を受け入れたりそれをなんらかの形で補填したりすることで、秩序の中で欠如を抱えるのが大多数の主体であるのに対し、自閉症者はそもそも秩序から取り残された主体である。自閉症者は、自我の疎外に晒されることなく、トラウマ的な出来事を反復しながら生の現実(自体性愛的な享楽)にアクセスし続けることができるが、その代わりに他者と交流する手段を持たないものとして描かれる。松本(2015)は精神分析の症状一般の根底に自閉症的構造が置かれていることを鋭く指摘するが、一方で自閉症自体の位置は精神分析の概念装置の中でいまだ特異的である。症状分析の力点が秩序との破綻した関係やトラウマ的なララングに置かれるのではなく、秩序のそもそもの非存在やララングの直視にあるからだ。

3.

 自体性愛とともに自己充足し、自己自身へ向けられた単独の言語使用の中で充溢する主体。しかしそのようなことは本当に可能なのだろうか?自閉症者は他者に向かって回収できない自己の一部としての声を送付することを拒み、それがゆえに秩序の中で分節されることはないが、それは決して言語使用が拒まれているということではない。自己に向けての単一のシニフィアンは反復的に発されている。しかし、どのようなパロール/エクリチュールが時間の中で常に同一の意味を保持し続けられるというのだろうか。むしろ準─超越論的な条件である差延の中で、その意味は常に差異化されることを強いられるのではないだろうか。言語行為の意味作用を規定するのはその言語のみでなく、むしろその周囲のコンテクストである。であれば、たとえ同一の言語使用であれ、一度として同じ意味作用を生じさせることなく、むしろ周囲との連接の中でその時々に特異的な意味作用を生じさせるものではないか。そのとき、ひとつきりのシニフィアンの常同反復は、当のシニフィアンが繰り返しの中でズレたリズムで差異化されていくことで、もはや同じシニフィアンへの回帰ではなく、別のシニフィアンとの連接へ、複数のシニフィアンへの送付となるのではないか。そのようなシニフィアンの自己差異化は「自己を代理するシニフィアン」の分節化でもある。したがって、シニフィアンが送付される先の主体も、分節化=疎外を経験した他なる自己になるのではないだろうか。へグルンドが指摘する通り、差延は時間という構造に先立つ、超─超越論的な条件として機能する。であるならば、自閉症者も含めすべての主体が時間の中で分裂し、他なる自己へと開かれていることになる。したがって、自閉症者もまた、他我構成の根本条件を他なる自己への開かれにて満たしているのではないか。ここでわれわれに立てられる仮説は以下の二つである。
 ①「声」の差延において自閉症者の単一的言語使用は分節化されシニフィアン連鎖を、したがって独自の象徴秩序を形成しうるのではないか。
 ②「主体」の差延において、また「声」の差延において、自己は常に他なる自己に開かれざるをえない。これは自閉症者を含めすべての主体に他なる主体と連接することを可能にしている構造なのではないか。
 
ラカンは他者と接続するための条件として、二重の疎外、すなわち想像的疎外と象徴的疎外を提示した。このうち想像的疎外を通過して「他我としての自己」を経験しつつ、象徴的疎外以前に置かれているのが自閉症者である。このような自閉症者の特異化に対し、脱構築を試みるのがデリダの差延と主体の論理だと解釈することはできないだろうか。デリダが提示する主体像は、再=自己所有化によって自己への帰還に固執するような、自閉症的なものである。それは西洋形而上学のロゴス中心主義の伝統の中核にあった、「自己への自己の現前」としての〈自己触発〉という主体構成につきもののものであった。しかしデリダの批判は、そのような自己への回帰が常に失敗に終わることを暴露するものだった。精神分析の視点から言い換えるならば、「主体は常に自閉症的であろうとし、そして常にそれに失敗する」ことを示すことで、自閉症的主体と正常=規範化された主体の区別を宙づりにすることだったと言える。このような形で、デリダとラカンの対決点を(当人らの論争という交錯点とは別の位置に)新たに描き直す可能性が提示される。

4.

 この仕事の達成には次のようなことが少なくとも必要になるだろう。まず、『声と現象』からフッサールの他我構成の問題と「孤独な心的生活」に関するデリダの批判を取り出す。そして『ユリシーズ グラモフォン』から「声」の自己免疫性を探り当てる。ここでは、ラカンによる「対象a」としての「声」との対決が確認できるだろう。主体の差延の問題は、自己免疫性を手掛かりに、後期テクストの参照が必要になるだろう。そしてわれわれは散種によるシニフィアンの偶然雑多な回付を、肯定的な秩序構成として捉え直さなくてはならない。

5.

「主体は絶えず他なるものへ開かれなければならない」それがこの仕事の最終的に引き出すであろう教訓である。主体が絶えず自らのことばによって外に連れ出されなければならないとすれば。ここで冒頭の話に立ち返ろう。自閉症者をスタヴラカキスの図式へ置きいれるなら、それは概念的に制度化された「政治」の一切を拒絶し、偶然的な「政治的なもの」の現実に固執する消極的な反抗者になる。スタヴラカキスがラカン的図式を援用するのは調和的ユートピアの不可能性を強調することにあった。われわれを取り巻く、他者と共有する規範は不完全であり調和的にならない。もし完全なユートピアがありえるとするのなら、現実的なトラウマの出現を隠蔽するかのように一部の集団を秩序から排斥し追放することになる。このようなスケープゴートの要請は、歴史的にはナチスにおけるユダヤ人虐殺などの形で表れてきた。スタヴラカキスは、このような差別や迫害を告発し停止するためにこのような図式を援用している。しかし、たとえ不完全であれ一切の秩序を受け入れない状態も好ましくないに違いないのではないだろうか。他者と共役可能な象徴体系の不在は端的に孤立であり、各々が自らの現実に引きこもり、他者理解を拒んで、偽りの調和であれなんらかの秩序を樹立し更新することを望まないのであれば、状況は進展しないだろう。しかし、自閉症的状況が、他者といるレッスンになるのであれば、自閉症と正常=規範化された人間に明白な境界がないのであれば、政治的に孤立した状態の人間を、他者に再接続し政治へと再び開くための回路をラカン理論の中に発見できる可能性がある。ヘゲモニーやマルチチュードのような紐帯をより広範に開く可能性があるのだ。この仕事はたんに精神分析とデリダの知られざる接線を明確にするだけではなく、精神分析と「ラディカル・デモクラシー」の接線を更新し、「ラディカル・デモクラシー」の概念装置を増やす、そういった政治的な試みでもあると言えるだろう。

(終)

参考文献
ヤニス・スタヴラカキス, 有賀誠訳(2003)『ラカンと政治的なもの』
松本卓也(2015)『人はみな妄想する』
マーティン・へグルンド, 吉松覚ほか訳(2017)『ラディカル無神論』

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