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「型」にはまらない



武道の型、というものが存在します。

初心者に、まずはこれをやっとけよ、的な感じで、うちの門派はこの動きで戦うからね、と教え込んで反復練習するものです。

太極拳にも型があります。

だけど、亀甲クラブでは型の練習はほとんどやらない。これまで書いてきたように、触り稽古がメインです。

これはなぜかというと、同じ動きを何回やって身体に染み込ませても、何千何万何億といる人間に対して、全く同じ原理で完璧に動きを伝授できるわけがない、と思っているからです。


正確に言うと、身体の動かし方は見た目は同じでも、その人の中でどんな筋肉の流れで、どんな骨格の使い方をして動いているのか、どんな意識で動いているのか、まで万人に同じように均一に教え伝えることは出来ない。


表面だけ真似しても無駄だよ、と諦めているわけです。


僕は亀甲クラブとは別に、地域の公民館サークルが主催する太極拳教室だとか、99式だとか、太極拳の源流と言われる陳式太極拳の教室にも当時は通っていました。


さすがにそういった教室の先生の動き方は綺麗だし、凄いのかもしれない。でも、その下で何年も、下手したら何十年も通い続けた弟子の動きは、全く整合性がとれていない、理にかなっていないチグハグな動きをしていたりするんです。


なぜ?


これは表面の動きだけを追いかけて真似してるからなんです。


それらの教室は、みなさんご存知のように、最初から最後まで基本的には型の練習。そして、時々、「この型は戦ってる時に相手がこう来たらこう返す技なんだよ」とか教えられる。

でも、そんな戦い方じゃ、勝てるわけがない。

特に最近の寝技や関節技なんでもあり、喧嘩ルールもヘタしたらOKな近代総合格闘技にでもエントリーしようものなら、間違いなく秒でKOされてしまう。

だって、相手がどう攻めてくるか、なんて予測不可能だし、そんな相手の攻撃をあらかじめ設定して対処を練習したところで、実践で使えるわけないやん?ってことなんです。

型にはまっちゃいけないよと。

だから亀甲クラブの先生は、「型」よりも、内側の動き方、意識の持ち方とかに重点を置いて触り合い稽古をするのです。


表面の動きじゃなく、中の構造を理解しましょう、という考え方なんです。


本来、「型」というのは人の生死に関わる争いを通して濾過されたものが緻密に設計されています。その本筋をきちんと理解すれば非常に理にかなった合理的な動きを学ぶことができるんです。そして、身体の動かし方を通じて、呼吸の仕方、意識の持ち方、などに発展させていくことができます。


だけど、表面だけ真似してもその合理性に気づかず、結果的に身体の内部がアベコベになってしまう。

でも、、、

そんなこと言われても、、、


じゃあ一体全体どうすりゃいいんや???


この問題に対する最も突き抜けた修行法が、1番最初の投稿で書いた「意拳」の「ただじっと立つ」だと思います。


例えば、テニスが上手くなりたいと思って、ラケットを何千回も素振りしますね。すると次第に筋肉がついたりして上達はします。特に初心者のあいだは、ひたすら表面の動きを追いかけて必死に真似して反復練習します。


だけど、ラケットを、10分くらいかけて1回だけ素振りしてみてください。


どうでしょうか?


すごくきついと思います。


普段は1秒で素振り1回くらいの速さです。きつくもなんともない。

しかしこれが5分とか10分とか時間をかけてたった一回を振ると、途端に身体が疲労します。



なぜか?



余計な力を使っているからです。


1秒で1回素振りしたら、間違えた動作でも反動とか勢いで誤魔化せる。そしてその間違えた動作であることに気づかずそれを何百何千回と根性で振りまくる。

この間違えた動作、反動、勢いを徹底的に排除して正しい動き方の再インストールをしましょう、というのが意拳です。

これはドラムでもギターでも何でも一緒です。スネアの一打も、一回のピッキングストロークも、10分かけて一動作をしたら途端に身体が疲れてしまって、手がプルプルしてくる。

ただでさえ身体の至る所に重力がかかっているんだから、動きをゆっくりやっているだけでも凄い腕の重みになります。じっとしているだけでも常に地球からの重力に引っ張られ続けていて、人間はそれに反発しなきゃいけない宿命を背負ってるんです。


それを踏まえて、たとえ止まっているようにゆっくり動いていても疲れないように動けるようになれば、本当に必要な力だけで動いたり打てたり出来るんじゃねえか??という理論なんです。

だから、ただ立つだけの修行のなかに、普段いかに「立つ」ということに余計な筋肉を使っているか、どうすれば楽に立てるのか、どうすれば重力から解放されるか、に対する答えを自分自身で見つけていくんです。


家というのは土台が安定して初めて頑丈なものになります。土台がグラグラしていたり変な傾きや歪みがあったとしたら、そのうち倒壊してしまうでしょう。

意拳はその土台を人間の「立つ」ことに置き換えているんだと思います。

そして、立った状態を応用してさまざまなスポーツとかにも発展していくのですから、まず出発点である「楽にバランスよく立つ」これが出来てないと、いくら動く練習しても意味ないよねってことなんです。

そしてついには、「うちには型なんて存在しねえよ」って武術を作り上げてるんです。

ちょこまか動くのはもうやめだ!

こざかしく動かずじっとしててみやがれ!

って理論なんです笑

ここまで知った風に偉そうなことを言ってますが、あくまで僕の解釈であり、僕も10分かけて一打なんて、ちゃんと出来るかどうかは不安です笑


ただこの「型にハマる」ことをやめようよっていう考え方がすごく好きなんですよね。
なにやらパンク的な思想を感じます。

親から「いい大学に入れ」とか「身だしなみはきちんとしろ」とか子どもの頃から型にはめられ続けて、表面上はまともなフリして内面では間違えたまま突き進んでおかしなことになっていく。


物の見方が固まっちゃって、パッと見て正解か不正解かをすぐに決めちゃう。


そして、僕みたいな変な修行してたら変人扱いされちゃう。

そして、こいつ変だなとおもったら最後、排除しちゃう。


そういった、いわば世の中の偏見に対する「それって本当に正しいんですか???」というアンチテーゼ的な部分を意拳にもパンクにも感じるのです。


最後らへんに無理やり音楽に結びつけましたが、今日はこのへんにしておきます。

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