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30歳の誕生日の3日前に山を激走したりしながら考えたこと ~自分を発揮して生きるとか~

30歳の誕生日の3日前、私はトレイルランニングセミナーに参加するため、
群馬県の赤城山麓にいた。
トレイルランニング、それは登山道などの未舗装路を走るスポーツだ。
去年の夏からランニングと登山にハマった私は、今年から少しずつ山を走ることを始めた。

道路を走るロードランと比べて、石や木の根につまずいてケガをするリスクも高いし、
仲間と行かない場合は最低でも3、4時間、ひとり山の中で肉体を酷使する、
まさに孤独な闘いといった感がある。

それでも自然の中で、風をびゅんびゅん切って走る心地よさは他のものでは得難く、
より速く、より長い距離を走りたいと切望する今日この頃である。

何を選択するかは自分らしさを形作っていくことだ、と思う。
トレイルラン含め、外でのアクティビティを積極的にやってきた自分は
多少の無茶をしてでも、
より自分の体を使いこなし、
より自由に、
そしてより楽しくなるほうへ選択してきた。
それが自分らしさを形成しているのかなと思う。

▲小雨降る中のトレイルラントリップだったけど、下山時には快晴!

話変わって、先日、「自分で名付ける」(著:松田青子)という本を読んだ。
本の中で女の子の子育てに奮闘している著者の体験談がリアルに語られるで
ときに考えさせられながら、一気に読んだ。
その中で響いた一節があったので紹介したいと思う。

こういう瞬間を日々見ていると、性役割とかは、散々言われてきているように、つくられたものだなと容易にわかる。
何も知らない状態だと、男の子のやること、女の子のやること、
なんて関係なくて、ただ楽しいこと、興味のあることになる。
これは男の子用とか、女の子用とか、全部大人が勝手に決めていることなんだと、O(子ども)といると痛感させられる。

この一節を読んで、
男らしさ、女らしさへのある種の誘導を、
するりとすり抜けていく自我というか、志向性というか、
こうならざるをえない自分というものが赤ん坊のころから多かれ少なかれ、あるんだなと思った。

いわんや大人をや、である。


そうは言っても、ただ気ままに生きているシングルの私でも
「性役割」なんて言葉を聞いて、
みぞおちのあたりがキュッとなる感覚もある。
「性役割?そんなの知らない」なんて言える時期は
そんなに長くないのかもしれない。


でも、いや だからこそ、
こうならざるをえない自分の心を上手く飼いならしながら、
せめて身体は人並み以上に動かせるように、
楽しく(!)負荷をかけながら、
ただ、自分を発揮して生きたいのだ。


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