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長岡のある偉人の法要へ、そして母方の祖先の地へ再訪

史遊会グループの代表にお声掛け頂き、長岡のある偉人の法要へ参加させて頂くことになったのだが、参加して諸々頭に浮かぶ何かを書かずにはいられないので、noteに記すとしよう。

1.興国寺への再訪

2.昌福寺

3.栄涼寺での法要そして忘れかけていた何か

4.光福寺への再訪

【1.興福寺への再訪】
新潟市に住む俺からすれば、長岡市には車にせよ電車にせよ容易に足を伸ばせるところではない気がする。だからこそ、この機を逃す訳にはいかまいと、まず初めに興国寺へ。
ここには、幕末新潟三傑の一人であり、佐久間象山の弟子で象山の二虎と称された小林虎三郎(明治期は病翁と改名)および弟で衆議院議員を務めた雄七郎の墓が建っています。

興国寺入口前です。人によっては、本堂まで長く感じれば、短すぎるだろうと感じる人もいる。

小林虎三郎(病翁)・雄七郎兄弟の解説文。俺も豪放不羈ゆえに未だに家族からの心配や不安は尽きないのだろう(笑)

小林虎三郎・雄七郎の墓。2人とも志半ばで他界したため、長岡にとっては相当の痛手だったに違いない。長岡の復興に対する熱意や本気度は間違いなく本物だったと思う。

【2.昌福寺】
興国寺を後にし、次に向かったのは次郎丸エリアにある昌福寺。ここは、長岡藩崇徳館の助教を若いながら務めた鵜殿団次郎の墓が立つ。

昌福寺の入口前。歩きやすいので、住職はじめ清掃に余念がない印象を受けたところ。

鵜殿団次郎の解説板。あまり知られていないが、勝海舟と西郷隆盛の間で執り行われた江戸城無血開城。これの成功の舞台裏には幕臣の山岡鉄舟が有名どころだが、彼だけでなく新潟からも鵜殿団次郎の奔走もあってこその実現だった。

鵜殿団次郎(号が春風)の墓。戊辰戦争真っ只中に、38歳の若さで病没。団次郎はじめ、長岡藩は戊辰戦争時に若くして戦死、病死した藩士が多いため、後の復興時も想像以上の苦労続きだったと考えられる。実は、団次郎の墓は興国寺にあるとばっかり思っていたので、以前1時間くらい墓探ししても見つからなかった訳だ……でも、苦労して探した分だけ、今回団次郎の墓を見れたのは嬉しい限り。

【3.栄涼寺での法要そして忘れかけていた何か】
昌福寺を後にし、この日メインの用事で東神田の栄涼寺へ。栄涼寺と言えば、長岡藩主牧野家の墓所であり、河井継之助や伊東道右衛門らの墓もある。

栄涼寺の本堂。この日は、幕末長岡三傑「三島億二郎」の法要に恐れ多くも参列した。参列者は長岡界隈では重鎮クラスばかりで、終始萎縮しっぱなし。三島億二郎の子孫は現在秋田で大学の教授を務めており、この情勢もあり参列されなかったものの、2年前の新潟日報に掲載されていた伊丹家現当主もお目にかかれて、心のどこかでは興奮していた。
※三島億二郎は伊丹家出身である。

法要の後、長岡市立南中学校の生徒が演じた「三島億二郎」のDVDを鑑賞。そこから、三島の功績が現在の長岡にどれだけの影響を及ぼしたかはっきり分かる。また、三島が活躍するにあたり、多くの偉人が点と点で結びやがて大きな輪を形成。そこには、戊辰戦争最中に命を落とした河井継之助、復興の完成を見届ける事が出来ずに病没した小林虎三郎など幕末長岡三傑の2人を筆頭に、多くの長岡人がそこにはいた。

改めて三島の功績は地元長岡だけに留まらず、各地への発信は必要不可欠だと思う。(個人的には、三島はマイナーな人物ではなくメジャーな人物だと考える。)

法要を終えた後、三島億二郎の墓前へ墓参り。この時、俺自身が歴史を通して何のために今まで活動したのかふと振り返っていた。一時期、野球で言うイップス的な感覚に悩まされ、企画して半強制的に実行した結果、後味悪い形を数回経験。それを引き摺ってしまい、中々次へと手が付かない頭が回らない状態が思いの外、長期化してしまった。今回の法要を介して、この状況から打破する為における強い決意と共に、活路が見い出せるそんな感覚を得た。次代を担う若手に正しい歴史を伝え残す事が、にいがた史遊会の活動の1つとして。そう忘れずにいようと思った時間だった。

【4.光福寺への再訪】
最後に4月に開催を予定している「摂田屋まち歩き」。その下見をすべく摂田屋エリアへ。以前のnote記事を見た方はご存知かと思うが、母方の祖先は摂田屋で商いをしており、北越戦争時長岡藩への軍資金提供などを行ったと言う。因みにその後、本家は早くも没落し、分家は拠点を変えて新潟市へ引っ越した。俺は後者の方に当たるのだろう。(家系図見てないから細かく把握しきれていない。)

昨年オープンした「6subi」。プレオープン時にも1度足を運んでおり、その際に食べた天むす絶品だったなあ。皆さんにも是非食べて頂きたいくらい俺自身もオススメ!

その後も闊歩し、数年ぶりに光福寺へ。ここは、小千谷市の慈眼寺で新政府軍との交渉が失敗に終わり途方に暮れた河井継之助が、新政府軍との決戦を表明した舞台でもある。北越戦争の開戦日はいつだろうと今も思う。

・光福寺での決戦表明日?
・片貝の戦い?
・(長岡藩が奥羽列藩同盟加盟前の)三国峠の戦い?

いずれも新潟が舞台のため、どれをどう取っても不思議ではないが。個人的には、3番目なのかなと思う。

光福寺敷地内にある戊辰戦争の碑。日本にあったガトリング砲3丁のうち2丁は長岡藩が所有しており、それをここに配備していたと言う。継之助の思い切った改革で、僅か数年で長岡藩を黒字財政に戻すことが出来たからこそ、兵や武器にお金を費やす事が出来たのだろう。祖先の謙左衛門もこの時摂田屋に居を構えていたから、もしかすると決起集会を見たのかもしれないし、見ていないかもしれない。何れにせよ想像すると、何か凄さを感じる。

最後に、越のむらさきの建物を見ながら摂田屋エリアの地図を再確認。4月のまち歩き無事に開催出来ればと願うばかり。(主催が自分なのに、願うって……)

特に多くは語りませんが、あの時の想いを再確認出来たので、それを忘れずに2つの活動を継続していこう。

歴史の真実の奥の奥に思いを馳せて。

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